異脳文化論① 論理親和性と共感親和性

ニューロダイバーシティ

こんにちは。

今回は異脳文化論というタイトルの第一弾として、私が普段よく使う言葉である「論理親和性」「共感親和性」という言葉についてご説明させて頂きます。そのことで脳や神経のあり方が生み出す違いに関する、私なりの視点や考えについてお伝え出来ればと思っています。

脳や神経の在り方や働き方が、人の感じ方や考え方、価値観などの個人差に大きな影響を与えているであろうということは誰も否定できない事実かと思います。ですがそれを「どのように影響を与えているのか」「どんな違いがあるのか」という話になると、まだまだ不明な点が大きいかと思います。

このテーマについて私は普段、「脳・神経由来の文化」という言葉で表現しています。現状で発達障害と呼ばれている現象のある側面は、私の言う「文化の違い」が生み出す「文化摩擦」や「異文化相互理解の齟齬」という部分が強くあるのではないかというのが私の持論でもあります。

この辺は、ニューロダイバシティという発想や、カサンドラ症候群と呼ばれる現象などにも深く関連しているかと思いますので、もしよろしければ下記記事などもご参照くださいませ。

前置きが長くなりましたが、ここから本論に入ります。

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論理と共感のどちらに親和性が高いのか?

論理親和性と共感親和性という言葉は、その人が論理と共感のどちらにどの程度親和性が高いのかという視点から、人の特性や個性の在り方を理解しようする言葉です。

最初にお伝えすべきこととして、この「論理親和性」「共感親和性」という言葉は私の造語であることはお伝えしなくてはいけません。なので特に学術的な定義や研究に基づく直接的な裏付けがある言葉ではありません。私なりの支援現場における臨床的な作業仮説上の用語だと思っていただければと思います。

前提としてこれらの言葉は、私が自閉症スペクトラム(ASD)を脳・神経由来の文化という視点で理解しようと考える際に使用する説明用語です。その為、基本的にはASDに関する神経科学や心理学の知見がその発想のベースとなっています。また、私が出会ってきた様々な事例や当事者との語らいの中で生み出されてきた発想でもありますので、私なりには「現場で使える、役に立つ」言葉だとは思っております。(この辺の背景知識については本論からそれますので、巻末に関連する書籍を張り付けておきますね。気になる方はこれらをご一読いただけますとよりご理解が深まるかと思います。)

ただ、これらの言葉たちは、現状の医学的診断基準に基づく自閉症スペクトラム(ASD)というカテゴリーに属する人たち「だけ」を説明するための用語というわけではないと私は考えています。なぜなら自閉症スペクトラムはその名の通りスペクトラム(連続)性のある現象であり、人類全体的な視点で見ると神経学的な多数派の人たちとの明確な線引きが難しい概念であるからです。すべての人は多かれ少なかれ論理と共感のどちらかに親和性の強弱があると考えられるわけで、そう考えるとあらゆる人に関係する言葉だと思います。(もちろん論理と共感の親和性がたまたま同程度存在するという方もおられるとおもいますが、それも強弱の在り方の一つとは言えるかと思います。)

その為、この言葉は人をカテゴリーで分類するための言葉ではありません。ちょっと専門的な言葉でご説明すると、これらの言葉は類型論的なカテゴリー概念ではなく、特性論的な視点に基づく特性記述用語の一つとして捉えて頂ければと思います。そのため、○○型ではなく親和「性」という表現となっています。ちなみにこの親和性という言葉は、「なかよし」とか「距離が近い」というような語感で捉えてもらうと分かりやすいかと思います。もう少し具体的に言うと、「自然に意識が向きやすい」とか「無意識のうちにそれを重視している」という感じです。

また、これらの言葉は何らかの「障害」や「問題」を記述するための言葉でもありません。あくまでその人の内側にある「特性」を考える為の言葉だと考えて頂ければと思います。どちらに親和性が高かろうが、それ自体に「よい」も「わるい」もないわけです。

論理親和性とは

論理親和性とは、論理、つまり「規則性や再現性の高い現象」に対して自然に意識や興味関心が向きやすい傾向のことを指す言葉です。個人個人の程度の差はあるものの、ASD者はこの論理親和性が高いという傾向があると考えられます。

この言葉を使う時に注意して頂きたい点は、あくまで親和性が高いと言っているだけであり、論理を扱うことに長けているという意味ではないということです。具体的に言うなら「論理的な思考能力が高い」「合理的な思考をする人」という意味ではなく、「論理に意識が向きやすい」とか「感情よりも論理的な整合性を重視することが多い」などの傾向を指す言葉です。

例えるならば、右利きと左利きみたいなものですね。右利きの人は「自然に右手を使う」傾向(親和性)があるわけですが、その人が「上手に右手を扱える」かどうかはまた別の問題です。右利きの人の中でも器用な人と不器用な人がいるのと同じことです。

実際問題、論理親和性の高いタイプの方で生きにくさを抱えておられる場合に、生まれ育ちの中の様々な経験によって何らかの「誤った論理」を獲得してしまい、またそれに過度に固執してしまうことが生きにくさの背景要因になってしまっている場合も少なからず見受けられるように思います。

いずれにせよ先ほどお伝えした通り、論理親和性が高いか低いかということ自体に良いも悪いもありませんし、また得手不得手の優劣も存在しません。それらの特性が経験の中でどのように扱われるのかの積み重ねによって、生きやすかったり生きにくくなったりするわけです。このことは重要な視点ですのでくどいようですが再度お伝えしておきます。

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共感親和性とは

共感という言葉は実は非常に扱いの難しい言葉です。なぜなら、この言葉には実に多様な意味やニュアンスが含まれており、人によってその受け取り方がかなり幅広いからです。例えば下記参考図書でもご紹介している「共感の社会神経科学」という本ではその冒頭で共感という言葉の使い方(言葉の意味)を8種類!に分けて説明しています。それくらい意味の幅の広い言葉なわけです。(共感という言葉自体の解説を始めると長くなりすぎるので、それはまた別の機会に書きたいと思います。)

その為、ここでいう「共感」をどんな意味で使っているのかということが大事になるわけですが、共感親和性における共感は「複数の人が同一の感情を共有していると感じる感覚」という意味だと考えて頂ければと思います。(私なりの仮説としてその定義で用いることが最も生産的であろうというという考えからですが、そこもかなり込み入った話になるので割愛します。)

この概念ちょっと解説が必要だと思うのですが、感情を「事実として共有」しているかどうかが大切なわけではなく「感情を共有していると感じる」ことが重要なのです。例えばだれかが非常に喜んでいた場合に、その人と全く同じ感情を他の人が感じているかどうかは確かめようがありませんし、どこまでいってもわかりません。しかしながら、「自分が感じている感情と同じ感情を目の前のこの人も感じている」また逆に「この人が感じているであろう感情と同じ感情を私も感じている」と思ったり感じたりすることは可能なわけで、ここで言う共感はその感覚を指す言葉です。

その為、共感親和性が高い人は、他者と感情が共有されているという感覚を非常に重視する傾向や、他者との感情の共有感覚に自然に意識や関心が向きやすい傾向があるということになります。

そしてASD者は共感親和性が低いことが多い傾向があるかと思います。というよりも私の経験上では、そもそもその感覚がわからないし想像もできないという方が多いように思います。実際に事実として「同一の感情を感じているか」は検証も確認も出来ないわけで、論理親和性の高い方からすると「なにそれ?意味あるの?」となりやすいわけです。

また、ここで言う「共感」の意味をより明確にしておくために、一般的には共感という言葉の意味として使われうるけれど、共感親和性における共感ではないものについてもご説明したほうが丁寧かと思いますので、書いておこうと思います。

それは「認められる、(肯定的に)受け入れられる」という意味です。この意味だと共感親和性という言葉が「他者に認められたい、受け入れられたい」という気持ちが強い人という意味になってしまいます。これはいわゆる承認欲求と言われるものに近い概念になり、承認欲求は人間全般に広く存在している欲求と考えられていますので、特性の説明概念としてはあまり好ましくありません。「ASD者にだって「共感」を求める気持ちはある」というようなことが言われる場合、多くの場合でそれは「承認欲求」という意味で共感という言葉を使われているように思います。

いかがでしょうか?私なりの説明用語である論理親和性と共感親和性という言葉についてお伝えさせて頂きました。もし「使える、役に立つ」言葉であると思っていただけますなら”著作権フリー” 笑 ですので、日常生活や支援現場にてお使いいただければと思います。多様な脳や神経の在り方が、それぞれに生きやすい社会になっていくことにほんの少しでもお役立ちできますことを望んでおります。

また長くなってしまいましたので、今回はこのへんで。

この異脳文化論についても、書きたいことがたくさんありますのでシリーズものとしてぼちぼちと書いていければと思っております。

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