「コグトレ」記事への批判的考察②ー「認知機能」の便利使い

心理士パパの子育て、教育、対人支援もろもろ雑記帳

こんにちは。

コグトレ記事への批判的考察、前回の続きを書きたいと思います。前回はコグトレが何のためのトレーニングなのかその目的に関する論理の矛盾についてお伝えし、「認知機能」という言葉が便利使いされてしまっているのではないかと主張しました。今回は、具体的に「コグトレ」において認知機能という言葉がどのように便利使いされてしまているのかを整理し、何が問題なのかお伝えできればと思います。

少なくとも以下のような点が、『問題のある認知機能の便利使い』であると私は思っています。

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因果関係が不明なものが自明の理として述べられる

<認知機能の向上は、社会性の獲得につながる

これは、今回の論考対象記事の小見出しの1つです。これは一体どういうことなのでしょうか?どんな認知機能が向上すれば、どのような意味での「社会性」を獲得することが出来るのでしょうか?記事内にはこう書いてあります。

コグトレによって少年たちの認知機能が向上することで、学習の土台(「見る力」「聞く力」「注意力」「記憶力」「想像力」)が鍛えられ、物事を自分なりに考えられるようになり、社会性の獲得につながるのだ。

この文章を素直に読み解くと、見る、聞く、注意を向ける、などの『基礎的な認知能力』が向上することで、『自分なりに考える力』が身につき、その結果『社会性が獲得』出来ると主張しておられることになります。シンプルに図示すると 「基礎認知能力向上」→「思考力向上」→「社会性向上」ということですね。

しかしながら私の知る限り、少なくともトレーニングによる向上という意味で、基礎認知能力が社会性を向上するという因果関係は科学的に証明されていません。こういったトレーニング効果が別の領域に波及することを専門用語で「転移」と言います。(近い領域への波及を「近転移」、遠い領域への波及を「遠転移」と言います)そして認知機能トレーニングに関する近年の様々な研究論文の傾向として、転移、その中でも遠転移は特に起りにくとされているのが現状かと思います。そして視覚機能や注意機能にアプローチするために作られたプリント教材と、社会性の向上は典型的な遠転移の関係にあります。

つまり、根拠がないことを自明の理かのように述べられているということになるのです。

要因の1つでしかない「認知機能」が、唯一の原因として語られる

「出来ない」の背景が過度に単純化され、まるで特定の「認知機能」だけが唯一の原因であるかのように説明されてしまっている現状にも問題があるように思います。

例えば以下の文などから読み解くことが出来ます。

「写す」力が弱いから写す練習をする、「数える」力が弱いから集中して数える練習をする。その結果、黒板を写せるようになる、数え間違いをしなくなる。

さて、「黒板を書き写すこと」に必要な認知機能と、「模写プリントで絵や記号を写す」のに必要な能力は同一でしょうか?

答えは明確に否です。

もちろん共通する部分はありますが、異なる部分もまた多くあるのです。例えば、模写プリントは「1つ1つ見ながら書き写す」ものなので、一時的にでも記憶する必要がありません。一方で黒板を書き写すためには、ある程度の情報をまとまりとして「一時的に記憶」して書く必要があります。また、黒板を書き写す必要のある状況の多くは、先生の話を聞くことが同時に求められます。

プリントで模写をする場合、眼球を動かす距離はとても短くて済みます。けれど黒板の場合は、手元と黒板の間を素早く何度も視線を移さなくてはいけません。その際は、視線を思い通りに操ることに加えて、遠い場所(黒板)と近い場所(手元の紙)に即座にピントを合わさなくてはいけません。他にも違いはいろいろとありますが、言い出すときりがないのでこれくらいにしておきます。

もし、黒板を書き写すことが出来ない理由が、「一時的に記憶する」ことや「聞きながら書く」ことの苦手さだった場合、また眼球を意図通りに動かすことや黒板にピントを合わせることの遅れによるものだった場合、模写プリントでどれだけ「書き写す」トレーニングをしたところで出来るようになれるわけがありません。

「出来ない」の裏側にある理由やメカニズムは、多種多様で安易に決めつけることなど出来ないのです。(また仮に、理由が特定できたとしてもトレーニングすることに「効果」があるかどうかは、また別の話です。)

本来別の「認知機能」が、まるで1つの機能であるかのように説明される

こちらについては、別の記事の記述が分かりやすいので、こちらから引用します。

なぜ非行少年たちは“ケーキを3等分出来ない”のか――医療少年院で受けた衝撃 | 文春オンライン
丸い円が描かれた紙があり、「ここに丸いケーキがあります。3人で食べるとしたらどうやって切りますか?皆が平等になるように切ってください」と出題されたら、多くの人がメルセデス・ベンツのロゴマークのよう…

「たとえば、ある図形を正面から見た場合と右側、反対側、左側からの見え方を想像する『心で回転』という課題は、相手の立場に立つ練習であり、相手の気持ちを考える力に繋がる可能性があります。

この文章の何が問題なのでしょうか?

それは、この文章の中に本来「別の能力」が巧妙に1つの能力であるかのように記述されているところです。まずここに書かれている「心で回転」とは専門用語では通常「心的回転(メンタルローテーション)」と呼ばれる能力で、イメージの中で物体を回転させていろいろな側面について考える認知的な情報処理のことを指します。

そしてその前に書かれている「図形を正面から見た場合と右側、反対側、左側からの見え方を想像する」という記述、これをどう読むかは難しいところなのですが、素直に読むと専門用語で「(他者)視点取得(ペースペクティブテイキング)」を指していると考えるのが妥当かと思います。これは例えば、AさんとBさんが違う場所から同じものを見た場合に、それぞれ違う風に見えることなどの見え方の違いをイメージする情報処理を指します。

重要なことは、一見似通っている「心的回転」と「(他者)視点獲得」が別の能力だと言うことです。

その証拠に例えば、ある論文では以下のように説明されています。

「自閉症スペクトラム(ASD)児においては,視点取得課題成績が定型発達群 と比較して有意に低いことが報告されている。一方,統制課題としての心的回転課題成績は定型発達 児よりも ASD 児において良いことが示されている。」

もしこれらが1つの能力なら、どちらが得意でどちらかが苦手であることは起こり得ません。つまり、先の文章は1つの文章の中で別の能力が、1つの能力であるかのように述べられているのです。

基本的に、プリント教材を用いて練習することが出来るのは「心的回転」と考えて間違いないでしょう。そして、社会的なコミュニケーションや関わりに強く関わっていると考えられているのは「視点取得」の能力です。つまりこの文章は、(意図的か非意図的かは私には分かりませんが)、2つの能力を混在させることで、心的回転の練習が社会性向上につながるものと読み取れるように書かれているということなのです。

気がつくとやっぱり長くなってしまいました。こういった状況が子どもたちにとってどんな問題を引き起こすと考えられるのかという一番大切なお話しは、次回に書かせて頂こうと思います。

今回はこのへんで。

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