掛け算順序問題から人の能力の多様性を考えてみた② 具体例から考える

心理士パパの子育て、教育、対人支援もろもろ雑記帳

こんにちは。

少し間が空いてしまいましたが前回の続きを書きたいと思います。前回は掛け算の順序指導を必須とすべきでない理由として、数的処理能力と言語処理能力が独立した能力である点からご説明しました。

今回はそれをより具体的にご説明していこうと思います。

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言葉を介さず数を処理する具体例

前回の記事のあとに、twitterでとてもよい具体例が紹介されていました。

これは、「15個入りで600円のチョコレートと18個入りで630円のチョコレート 一個あたりの値段はどちらが高いですか?」という問題に18×600÷15÷630=8/7と答えた子どもの頭の中を推測して解説されているものです。

この推測が実際にお子さんの頭の中で起こったことかは別にしても、こう考えると確かにお子さんの答えが腑に落ちることは確かかと思います。つまり頭の中でこう考える子どもがいても不思議はないわけです。

さてみなさま。このお子さんがこの問題をこのように考えて解いたと仮定した場合、解答までの道筋にほとんど日本語が出てこないことがお分かりでしょうか?つまり言語処理能力をほとんど使わずに、答えにたどり着いています。

ちなみにここで言う言語とはいわゆる音声言語のことを指しています。日本でいうなら日本語ですね。数式は数を扱うための「言語である」とよく言われますが、これを比喩表現ではなく文字通り言語としてしまうと、言語とは何かという定義の問題になってきてしまいます。ですのでここでは数式は数的処理の範疇として扱います。

話を戻しますね。

このお子さんはきっと言語より数的処理の能力に長けたお子さんなのだと思います。そして言語をほとんど使わずに説いた問題について、言語で説明することを求めた場合このお子さんはうまく説明できない可能性が高いです。

このお子さんからすると「え?式に考え方書いてあるよ。これ以上何を説明したらいいの?」という状態になるでしょう。言葉でうまく説明できなくても、このお子さんはこの問題を「正しく理解し、正解を導き出している」のです。

これを、言葉で説明できないのだから「分かっていない」「当てずっぽうで書いただけ」「たまたま答えが合っていただけ」などと評価してしまうことがいかにナンセンスであるかがお分かり頂けるかと思います。

ツイートにも書きましたが「言葉で説明できない=分かっていない」ではないのです。

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生活場面での活用と言語理解は別問題

数的処理能力と言語処理能力が異なる能力であることは先の例でご理解頂けたかと思いますので、掛け算の順序問題に話を戻しましょう。 

掛け算の順序指導を必須とするべきと考えておられる方に多い、算数を生活場面で活用できるようになるために、「掛け算のそれぞれの数字が実際何を意味しているのかを理解することが重要であり、その為には掛け算の順序を理解し、数字の意味を説明できることが必要となる」という考え方についてみていきましょう。

まず私は数的処理の能力を生活場面で活用できるようにするという教育指針については大賛成です。ただそこに「言語的な理解」や「言語的な説明」を求めることを必須とするべきではないと考えています。ましてや、数学的に正しくない掛け算の順序という考え方を「必須の」「正しい」「絶対的な」方法として子どもたちに指導することは、あってはならないことだと思っています。

なぜなら言語が苦手で数的処理が得意な子どもにとって、その指導は混乱を招く害にしかならない可能性が高いからです。誤解して頂きたくないのは、「必須とするべきではない」であって「してはいけない」ではないということです。

「一つ分✕いくつ分というふうに順序を固定して考えるやり方もあるよ」という指導が助けになる子もいます。大切なことはその子に合ったやり方を否定しないことです。

少し前置きが長くなってしまいましたが、ここで一番お伝えしたいのは、「言語理解を必須としなくても、日常場面で数的処理の活用は可能である」ということです。

具体例をあげましょう。

部屋に、5人がけの長椅子が8脚ある場面があったとしましょう。クラスみんなでやってきて、そのクラスが30人だったとします。そこで「全員座ったらあと何人座れる?」と問われて答えることが出来るかどうかが算数を生活場面で活用できるかどうかの具体例となるかと思います。

結論、「この場合の一つ分は椅子に座れる人数で5、そしていくつ分は椅子の数だから8」とは説明できないけれども、即座に答えを「10人!」と答えられる子どもたちが実際にいます。その子達は頭の中で日本語を使わずに数と記号を用いて、もしくは視覚的なイメージを用いてその場面に必要な答を「考えて」導き出します。

言語によらない思考もまた、思考なのです。

そういうタイプのお子さんに「この場合の一つ分は何?」と問いかけてうまく答えられないことだけを根拠に「この子は理解できていないし、これでは生活場面で算数を活用できない」と評価してしまうことは避けるべき誤った評価だと思います。

この質問に答えるためには数的処理には本来不要な「一つ分」と「いくつ分」という言葉の概念を理解し、数的処理から言語に翻訳し直して表現しなくてはなりません。言葉の発達が数的処理に比べてゆっくりなタイプのお子さんにはそれはとても難しいことです。

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「伝わらなければ意味がない」の傲慢

ここまで読まれて、「そうかもしれないが、言葉にしなければ他者に伝わらないし、伝わるように指導するのが教育だろう」と考えられる方もおられるかもしれません。実際にtwitterでそのような趣旨を述べられる方もおられました。

私は、その意見は一方の視点からだけ見た非常に片手落ちの意見だと思っています。それは数式というものそのものが本来「他者に伝えるための方法論」であるという視点の欠如です。数式は言語であるという比喩表現はこうしたところから生まれているのだと思います。

表現方法である数式を別の表現方法である言語にわざわざ置き換えるということは、例えるなら日本語で言えばいいところをわさわざ外国語に翻訳して言わせているようなものです。必要なのは「数式で正しく自分の考えを表現出来るようにする」ことであって、「数式を言語的に解釈出来るようにすること」ではないはずです。

そして、掛け算にも「正しい順序」があると指導することは、「数式で正しく自分の考えを表現出来るようにする」ための指導とは真逆の指導だと思っています。なぜなら数学的にはそれは明確に間違った考え方だからです。例えるなら、英語で表現させるためにわざと誤った日本語文法を指導しているようなものです。

数的処理が得意で言語処理が苦手な人なら、まずは数的処理で理解し評価され、その後に言語的に翻訳することを学んでいったとしても本来何も問題はないはずだと思います。算数において「言葉にしなくては伝わらない」と考えることは「言葉だけが伝える手段である」と決めつける傲慢な考えではないかと私は思っています。

数的処理の得意な子も言語処理が得意な子も、人の能力の多様性がより正しく理解され尊重される社会や教育であって欲しいなあと切に願っております。

長くなってしまいましたが最後までお付き合い頂けました読者のみなさまに何か一つでも伝わりましたらうれしいです。

では!

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