理不尽への「我慢の強要」と「学習性無力感」について①

心理士パパの子育て、教育、対人支援もろもろ雑記帳

こんにちは

先日、理不尽への我慢の強制について書きツイートをしたところ、たくさんの反響を頂きました。このテーマについてはいろいろ思うところもありますので、ブログにまとめたいと思います。

連続ツイートの続きです。

社会の理不尽に巻き込まれて命を落とされてしまった方、重篤な心の病を発症せざるを得なかった方 そういう悲しい事例がたくさんあることに私たちは向き合わないといけない時代になっていると思うのです その時代に子どもたちに身につけて欲しい力は、理不尽への忍耐力でも受け流す力でもないはずです。

そう考えると理不尽に出会った子どもたちが取り得る選択肢は結局「戦う」か「逃げる」のどちらかということになるかと思います だから、子どもたち若者たちの戦う、逃げるを応援する大人が増えなくてはいけないと思うのです 個人的には戦うか逃げるかを決めるのは子ども自身でいいのだと思っています

一番怖いのは子どもたちがいわゆる「学習性無力感」という状態になってしまうことだと思うのです 「自分が何かをしてもどうせ何も変わらない」 人生の早い時期に強くこう感じてしまうことを何とかして避けなくてはいけないと思うのです 我慢の強要は学習性無力感を促進させるのではないかと思います

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忍耐力向上のために理不尽な加害が放置される?

私が上記ツイートをした背景には、近年の様々な悲しい事件があります。個別案件についてはここでは触れませんが、大人も子どもも耐え難い理不尽を「耐えよう」「我慢しよう」としてしまった結果、大切な命を落としてしまうような事例が後を絶ちません。

特に子どもたちを取り巻く環境については、(命に係わるようなレベルでなくても)本来是正されるべき理不尽で不適切な扱いが、「忍耐力向上のため」という理由で放置される、もしくは場合によっては合理化され推奨されるような事例や場面がまだまだ日常的に多くあるように思います。

例えば、「スポーツや習い事の指導者による暴言や体罰、または上級生によるいじめにも近いしごき」「学校における過剰な校則や校則違反への過度な罰則、頑張ることが目的の意味のない反復課題」などなど、例をあげるとたくさんあります。子どもたちからすると理不尽でしかない扱いが、「将来のために我慢する力を養う」という全くエビデンスに基づかない不適切な理由で放置されてしまっていることもまだまだ少なくないのではないでしょうか。

その場合、先のツイートのように「社会には理不尽がたくさんあるので、これくらいの耐えれなくてはこの先困る」「忍耐力を養うためにやっていることだから、そのために頑張りなさい」などという理由が語られることが多いでしょう。

私に言わせるとこれらの理由はまったく理由になっていないだけでなく、目的と手段を間違えてしまっているので逆効果の結果を生み出してしまうリスクが高い考え方です。ここからは私なりに、「理不尽への我慢の強要」がなぜよくないのかについて整理してご説明していきたいと思います。

「我慢の強要」の先にある「学習性無力感」

まずここで大切なのは、今話していることが我慢の「強要」であるということです。つまり子どもたちの視点からすると「他者から与えられる我慢」であり、「自分の意思とは関係なく強制され逃れられないもの」というところです。

こういった他者から強制的に与えられる拘束は「学習性無力感」と呼ばれる現象を生み出してしまうことが知られています。学習性無力感とは、「何をしても無駄だ」「何を行っても意味がない」と強く刷り込まれてしまい、適切な逃避行動や努力行動が一切できなくなる状況を指します。

よく使われる例え話があります。

小象の時に鉄球を足につけたり、杭に結び付けて一切の抵抗や移動が出来ない状態を続けた象は、大人になっても逃げだそうとしないそうです。大事なのは大人の象の力なら少々の鉄球や杭は本来縛り付ける役に立たないということです。つまり大人の象はその気になって逃げだそうと思えば逃げ出せるのです。ですが、子どもの頃から「逃げようとしても無駄だ」と刷り込まれて学習してしまた象にとっては「逃げる」「暴れる」という行動の選択肢自体が消えてしまってような反応をするのです。

セリグマンという心理学者の研究によると、この学習性無力感というものは「非随伴的なストレス刺激」が与えられ続けることによって起きるという特徴があるとされています。非随伴的とはつまり、自分の行動が全くそのストレス刺激に対して影響を与えない状況を指します。つまり逃げ場がない、何をしても変わらない、ストレス状況を回避するためのロジックや選択肢がない状態ということです。

先ほどからお話している、大人から子どもに与えられる「理不尽への我慢の強要」が子どもにとって「非随伴的なストレス刺激」そのものであることがご理解いただけるかと思います。

問題なのは、この「学習性無力感」という状態が見た目上「我慢できるようなった」というふうに見えてしまうところにあります。ですがその心理状態は全く違います。一方的に与えられる我慢の強要がうみだすのは「諦め」であって、「忍耐」ではないのです。そしてその諦めは「抑うつ」や「解離」と呼ばれるような心の病の状態へとつながっていくと考えられています。

「忍耐力向上」を目的としていたはずの扱いが、忍耐力向上には結びつかず似て非なる「学習性無力感」につながってしまうということを多くの人に知って欲しいと思います。

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生存バイアスという落とし穴

「いやいや、そんなことはない。私は理不尽に耐えて強くなった人をたくさん知っている。」

「私自身が我慢することで強くなれた。我慢できない人のほうがおかしい。弱すぎる。」

この記事を読んで、そう思われた方もおられるかもしれません。実際twitterではそういった趣旨の反応も少なからずありました。

こういう視点のことを「生存バイアス」と言います。これは「学習性無力感」とセットで広く世に知られて欲しいと思う考え方です。

生存バイアスとは、生存者バイアスとも呼ばれ「脱落したものや淘汰されたものを評価すること無く、生き残ったもののみを評価するというバイアス」のことを指します。つまりスタート時点ではいてたはずの人たち(そして多く場合こちらのほうが圧倒的多数)が、まるで「最初からいなかった」かのように扱われ、その上で「〇〇が成功の為の秘訣だ」というような言説につながってしまうことを意味します。

体罰や我慢の強要はこの、生存バイアスの典型例として知られています。

「非随伴的なストレス刺激」に長くさらされると「学習性無力感」が起こると先ほど書きましたが、これには個人差がありますし、個々の状況によっては起こらない場合や、学習性無力感の一歩手前で踏みとどまれるようなケースも起きます。そしてそういうケースの場合、その当事者はその苦しかった経験によって「強くなれた」と感じることもあるでしょう。もちろんそれはその当事者にとっては、その人の人生でありなんら否定されるべきことではありません。

ですが忘れてはいけないのは、それは「たまたま生き残れた」「多くの人はうまくいかなった」という側面もまた無視できないのです。つまり多くの学習性無力感の「屍」の上になりたっている「私は強くなれた」であることは否定できないのです。

生存バイアスは社会の落とし穴です。このバイアスを無視することで、社会は一握りの「成功者」の為だけに最適化されてしまう傾向があるからです。

理不尽への我慢の強要というテーマについては、まだまだお伝えしたいことがあるのですが、長くなってしまいましたのでいったんここで終わりにしたいと思います。

次回は、そもそも「忍耐力」を高めるためにはどうすればいいのかという点や、社会の認識のアップデートについて私なりの整理を書きたいと思います。

では!

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コメント

  1. […] ●理不尽への「我慢の強要」と「学習性無力感」について考えた (村中直人の雑記帳) […]

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