「言葉の定義にこだわる」大切さを改めて考えてみた

心理士パパの子育て、教育、対人支援もろもろ雑記帳

こんにちは

先日こんなことを何気なくtwitterでつぶやいたら、予想以上に大きな反響を頂きまました。

このことをきっかけに「言葉の定義にこだわる」ことについて、改めて考えて思うところを書きたいと思います。このことは、人とのコミュニケーションがうまくいかない背景要因として、実は大きな影響力のあることだと思っています。

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「言葉の定義にこだわれ」という教え

まずtwitterで呟いたことをもう少し詳しく書かせて頂きます。

私がまだ臨床心理学を学ぶ大学生だった頃に、精神科のクリニックで実習をさせて頂いたことがあります。実習と言っても学部生の段階でさせてもらえる内容は高度なことではなくて、ほぼクリニック見学みたいな感じだったかと思います。

実習先の医院長であられる精神科医の先生といろいろお話させて頂く機会があったのですが、当時の私は今以上に頭でっかちというか、聞きかじった専門用語を使って持論を話して悦に入ってしまうことが多くありました。その先生は非常に温和なお人柄で学生である私の話をうなづきながら一通り聞き終えたところでこう仰ったのです。

「村中君、きみがいろんなことに興味をもって学ぼうとしたり、体験してきたことはよくわかる。それはとてもいいことだと思うけれど、君の話の中には言葉の意味をちょっと都合の良いように解釈したり、間違った使い方をしている部分があるよ。

専門家になりたいなら、まずは言葉の意味や定義をしっかり理解して正しく使うようにしなさい。難しいことなんてまだ出来なくていいし、言えなくてもいい。けれど専門用語を使うなら、それは意味がきちんと定義されているものだから、いい加減に使わず定義にこだわって使うようになさい。まずはそこからです。」

こう指摘されて私はとても恥ずかしい気持ちになったことを覚えています。得意げに話をしていたことの根底が崩れたわけですから。けれども今考えると、このご指導は私にとってとてもありがたいものでした。それ以来、私は専門用語の言葉の定義をとても気にするようになりました。そうやってみてみると、似たように見える言葉が明確に区別して使われていたり、また逆に全く違うように思える言葉が定義の上では非常に近いということがたくさんあることに気づけるようになりました。

定義が複数あったり、不明確な言葉の罠

言葉の定義に注目するようになると、他にも重要な気づきがありました。

それは、そもそも言葉の定義が複数ある場合や、言葉の定義が不明確なまま使用されている言葉たちの存在です。どちらもコミュニケーションをしていく上で、とても注意が必要な言葉たちです。

例えば、「発達障害」という言葉。

この言葉も様々な意味や定義が存在している言葉です。例えばかつては「全般的な発達の遅れ」、特に言うならば「知的な能力の発達の遅れ」を指す言葉としてよく使われていた時代がありました。けれども現在では発達障害という言葉は、「(少なくとも大きな)知的能力の発達の遅れを伴わない」タイプを指すことが多くなっています。

もっと細かく言うと、医学上の定義と法律上の定義の違いなどもあったりするのですがちょっと専門的な話になりすぎるのでここではこれくらいにしておきます。(興味のある方や支援職で学びを深めたい思われる方はぜひは発達障害サポーター’sスクールの講座をご受講ください笑)

こういった言葉たちを「なんとなく」で使ってしまうことは非常に非生産的なコミュニケーションを生んでしまいます。前提が違うとそもそも違うことについての話をしてしまっているわけですからね。どれだけ熱心に説明しようが、心を込めて話そうが、すれ違いや誤解を深めるだけの結果となってしまうのです。その為、コミュニケーション時に「今その言葉をどの定義、どの意味で使っているのか」を明確にしながら話をする必要があります。

けれども残念ながら、言葉の意味や定義が不明確なままこういった多義的な言葉が使用され不毛な対立や非生産的な議論が生まれてしまっていることが少なくないように私は感じています。

いくつか関連するTwitterで頂いたリプライをご紹介します。

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専門用語だけの話ではなかった!

また、今回Twitterでたくさんの反響を頂いて、私の中で新しい気づきがありました。

それは、この話が何も「専門用語」や「専門家」だけの話ではないということです。こちらも関連ツイートをご紹介します。

もちろん、専門家と呼ばれる人やそうでなくとも専門的な用語を「専門用語」として使用する場合、言葉の定義を明らかにし定義にこだわって使用することは当然のことです。ただ、専門家ではない方の一般的なコミュニケーションの範疇であっても、多義的な言葉を使用する場合やそもそも言葉の定義が存在しておらず恣意的に意味やイメージを決めることが可能な言葉を使用する場合、言葉の定義にこだわることが必要な場面も多くあるのだと思います。

「言葉の定義」というと難しく感じられる場合もあるかもしれません。そういう場合は「言葉の意味」や「言葉のイメージ、ニュアンス」というふうに言い換えてもらってもよいかもしれません。

例えば、「子どもの成長」「豊かな学び」「社会への適応」などこれらの言葉は子どもたちや教育に関連する場面においてはよく使われる言葉ですが、その意味することやイメージは非常に恣意的に決めることが出来る言葉たちです。何をもって「成長」と呼ぶのか、どんな学びが「豊か」であると言えるのか、何がどうなれば「社会に適応できた」と言えるのか、そこには無数に解があり得ますし、どれが正解ということもないでしょう。

問題なのは同じ言葉を使って、全く違う意味やイメージ、ニュアンスを感じている場合です。同じ言葉を使っているので「同じ意味で通じている」と思い込んでしまう場合、当然ですがすれ違いや誤解が生まれる可能性が飛躍的に高くなってしまいます。

そして言葉の定義レベルの理解の相違がコミュニケーションがうまくいかない原因であるということが理解できない場合、「あの人は分かっていない」「おかしな考え方をしている人だ」などという個人攻撃の罠にもハマりやすくなると思います。

決定的に意見や考えが異なっている場合もあるでしょうけれど、言葉の定義を揃えると案外考え方に大きな差はなかった、ということも少なくないのだと思っています。

長くなりましたので今回はこのへんで!

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