カサンドラ症候群について⑤カサンドラには対義語が必要だと思う話

発達障害よもやま雑記帳

こんにちは。

少し間が空きましたが、カサンドラ症候群についての私見の続きを書かせて頂こうと思います。

前回はこちら

今回はカサンドラ症候群の対義語の必要性について書かせて頂きます。このことについて、私の考えに否定的なご意見を持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、一つの問題提起として書き残しておきたいと思います。

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カサンドラ症候群という言葉の非対称性

過去の記事にも書きましたが、私はカサンドラ症候群という言葉を、その生まれた背景から考えて意義と価値のある言葉だと思っています。しかしながら一方で強い危惧も感じてもいます。それはカサンドラという言葉が自閉スペクトラム者を一方的に非難し貶めるためだけの言葉となってしまうリスクへの危機感です。(詳しくはその①をお読みください)

そしてその危惧がどこから来ているのかと突き詰めて考えていくと、カサンドラ症候群という言葉の持つ非対称性にあるのではないかと私には思えるのです。それはつまり、あまりにも自閉スペクトラム者側からの視点が乏しいということです。

カサンドラ症候群は関係性の中で起こることなのに、自閉スペクトラム者側の視点、つまり自閉スペクトラム者がパートナーとの関係をどう感じているのかや、自閉スペクトラム者側の想いや悩みや葛藤などが語られることは多くありません。主体性や主観的な感性を持つ一人の人としてではなく、自閉症スペクトラムという「障害」故にただただパートナーを困らせ苦しめる存在として認識され描かれることが多いように、私には思えるのです。

それはあまり生産的な発想ではないように私には感じられます。生産的ではないというのは、自閉スペクトラム者とそのパートナーとの関係性を良くしたり、幸せな夫婦(恋人)の日常に繋がらず、むしろ問題を深刻化してしまうリスクが大きいということです。

関係性の問題を相対化するための対義語

ではどうすればよいのかと思いを巡らせた時に、カサンドラ症候群の対になる対義語を生み出して広めることが最も生産的な方法なのではないかと考えています。いわゆる定型発達と呼ばれる多数派の人からの視点がカサンドラであるなら、同じ現象を自閉スペクトラム者側からの視点で表現する言葉を生み出すことで問題を相対化し、一方的に非難するだけの文脈でなくしてしまおうとする発想です。

カサンドラ症候群自体がもともと正式な医学用語ではありませんし、その対義語が生み出されたとしても特に誰も困らないし迷惑もかけないはずですしね。

対義語を生み出し問題を相対化することの意味や影響力はとても大きいように私は思っていて、そしてそれは問題をよくする方向での影響力だと考えています。対義語があることでこの問題の本質が「互いを求め合う異文化間パートナーシップにおけるストレス状況」であることがより明確に伝わるようになると思うのです。

そしてもう一つの側面は、本来カサンドラ症候群と呼ぶべきではないものを見分けることにも繋がるのではないかとも思います。つまり私がカサンドラ症候群の誤用問題と呼んでいることに一定の効果があるのではないかと思うのです。


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どんな言葉が相応しい?

ではどんな言葉が対義語になり得るのか、実はまだ私も見つけられていません笑

ただ、別に私が見つけて発信することに意味があるわけではないわけで、どなたかが良い言葉を見つけて発信して頂けるなら私はそれを全力でサポートしたいと思っています。その意味も含めてここに文章として書き残し、私と同じ考えを持たれる方や共感して頂ける方に届くといいなあと思っています。

それでも、私なりのイメージがないわけではないので、そのことについても書いておこうと思います。前回の記事にも書かせて頂いたのですが、自閉スペクトラム者側からカサンドラを見た時のキーワードは「困惑」だと思っています。それはまるで、いつの間にか知らない異世界に迷い込んでしまったような、自分の持っている感性や常識がすべて否定され音を立てて崩れていくようなそんな感覚です。

問題を解決しようと思って、やることなすことがすべて裏目に出て、何もかもが嫌になっていく、そんな苛立ちや悲しみ、ここに表現すべき自閉スペクトラム者側の体験があるように思っています。

その意味で、Alice in wonderland syndrome (不思議の国のアリス症候群)という言葉を思いついたりもしたのですが、調べてみるとこの言葉別の意味ですでに存在しているようですね。(Wikipedia情報ですが。)

それでは今回はこの辺で。

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