「成熟したASD成人像」について

ニューロダイバーシティ

こんにちは。

今日は「成熟したASD(自閉症スぺトラム)成人像」というテーマで書きたいと思います。

以前にこんなツイートをしました。

この成熟したASD成人像というテーマについて、まだブログに書けていなかったので、ニューロダイバーシティのテーマと合わせて、書きたいと思います。

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幼稚さや未成熟はASD特性そのものではない

まず、この議論の入り口に書いておかなければいけないのは、その人の「幼稚さ」や「未成熟な人格や行動」というものは決してASD(自閉症スペクトラム)の「特性」そのものではないということかと思います。(前提として、全般的な発達(特に言えば知的能力の発達)の遅れがないか、あっても軽微なタイプの人のことを話しています。)ただ、特性そのものではないと、わざわざ書かなくてはいけないということは、逆に言えばそれが特性と誤解されるくらいによくある出来事であるとも言えるということなのだとも思います。

例えば、先のツイートのきっかけでもありますがカサンドラ症候群と呼ばれる現象について何らかメディアで取り上げられる場合、事例として紹介されるASD者はほぼ(私が知っている限りでは全ケース)何らかの幼稚さや人格的な未成熟さを抱えている人物が出てきています。ひどい場合は、暴力行為や虚言癖までが「ASD特性」であるかのように描かれてしまっています。これは断じて誤りです。

カサンドラ症候群については下記記事をご参照ください。

また、発達障害支援の現場におられる方なら、発達障害、特にはASD(自閉症スペクトラム)タイプのお子さん、若者たちが実年齢よりも幼い印象である場合が多いことは実感として持たれている場合も多いのではないでしょうか。実際支援現場では、発達障害の子どもの精神年齢は実年齢の7割、とか6割なんてことが言われていたりもします。

ですが、再度お伝えしますがこの幼さ(幼稚さ)自体はASD者の特性そのものではない、というふうに私は考えています。まずはそのことについて考察し、そして成熟したASD成人像という今回のメインテーマに話をつなげていきたいと思います。

社会経験の乏しさからくる幼さ

幼さや未成熟さは、ASD者の本質的な特性ではないとした時に、なぜそういった状態に留まっている当事者が多くなってしまうのかについて、私は「社会経験の乏しさ」という側面が相当に大きいのではないかと思っています。もう少し厳密に言うなら「他者との関わりの中で体験から学ぶ経験」の少なさが中心と言えるかもしれません。

なぜ、社会経験が乏しくなるかという問いの答えはその人その人によってかなり個別性が高いように思いますが、共通している構造は「彼らの特性に合った他者との関わりなどの社会経験」が提供できる環境の少なさかと思います。そうなってくると、限られた空間で限られた人物とだけ関わることが増え、相対的に社会経験が乏しくなってしまいます。

また、他者との関わりへの苦手意識や感覚過敏などの神経的な特性の影響で、参加できるイベントや場所が限定されてしまう場合が多いことも一役買っていると言えるでしょう。

なので私に言わせると、精神的な成熟年齢(知的な能力の発達のことではありません)が実年齢の6〜7割ということの背景には、社会的な経験とそこから学ぶ体験の量が6〜7割、場合によっては半分以下ということが相当にあるのではないかと思っています。

忘れられた「成熟したASD成人」像

さて、幼さや未成熟さ自体がASD特性ではないとした場合、当然のことながら「成熟したASD成人」が存在するということになります。

ただし、その存在は社会的に注目されることはありません。なぜなら、そういう方の多くはなんとかこの既存の社会に「適応」し、精神医学的に「障害」であるとはされないからです。またもちろん世間を騒がせるような「問題」も起こしませんので目立ちませんし、ドラマ性があまりないのでメディアも取り上げません。なので多くの方がその存在を知らないという結果になります。

少なくとも、現在のように知的な障害を伴わないASD者が医学的にも福祉的にも、心理学的にも注目されていなかった時代に育ったASD成人の場合はその傾向が顕著かと思います。また、支援法ができて10数年が経った現在も、その存在はほぼ注目されていないように私は思います。

しかしながら、これからの時代を生きるASDタイプの子どもたちの子育てや教育に関わる人たちにとってこの「成熟したASD成人」像というイメージはとても大切な観点だと私は思うのです。

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脳・神経由来の文化的少数者を育てる

なぜなら、ASD児を育てるということは脳・神経由来の文化的少数者を育てるということだからです。この観点はニューロダイバーシティの中心的な人間理解視点であり、私個人としてもASD理解と支援がうまくいくことに必要な、根本的な姿勢、スタンスだと思っています。

もっとはっきり言うなら「神経学的多数派」になんとか近づけようとする支援や教育はどこかの時点でうまくいかなくなるのだと私は思います。そう考えた時に「この子の脳や神経」のタイプに合った「成熟した成人像」をイメージできるかどうかということは、「多数派の呪縛」とも呼べるような同調圧力から開放されるためにとても有益な情報だと思うのです。

また子育てや教育の方針を考えたり、「してあげるべきこと」や「してはいけないこと」を考える上でも、成熟したASD成人像という視点はとても大切です。それは、どんな大人に育ってほしいのかという問いの答えそのものだからです。

ただ勘違いしていただきたくないのは、私が言う「成熟したASD成人」とは、神経学的多数派の社会に「極限の努力の結果なんとか適応している人」や「二次障害なく成人になれた人」というようなニュアンスや意味で問うているわけではありません。

長くなってしまったので、そのあたりのテーマは次回に書きたいと思います。今回のところはこのへんで!

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