成熟した自閉スペクトラム成人像について② 論点整理

ニューロダイバーシティ

こんにちは。

成熟した自閉スペクトラム成人というテーマの続きを書きたいと思います。前回は主にこのテーマの概要と重要性について書きました。今回は、このテーマを考えていく上で、おさえておきたい論点の整理をしたいと思います。

なぜ論点整理かというと、このテーマについて私は、「私なりの成熟した自閉スペクトラム成人像」を具体的な内容として提示したいわけではないからです。このテーマについて考えたり、語ったりする人が増え、たくさんの生産的で前向きな議論がなされていけばいいなあという、私なりの社会への課題提起のつもりで書きたいと思います。

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「成熟した成人像」は文化によって異なる

まずそもそも「成熟した成人」とはどんな存在かという問い自体が哲学的と言いますか、最終的な解が得にくい問いかと思います。ですが文化という視点で見ると、少しは具体化されて考えやすくなります。

例えば、日本において「成熟した成人」として求められる像と、アメリカ合衆国においての像は、共通している部分もあるでしょうけれど、かなり異なっているのは想像しやすいのでないでしょうか。そして平均的な日本成人は米国においては「幼い」とか「自我が成熟していない」という評価を受けることも少なくないかと思います。

この辺は、「異文化理解力」という良書がありますので、興味のある方はご一読頂ければと思います。

この本によると、日本は世界の中でも突出した「ハイコンテクスト(文脈依存的な)文化」の国だそうです。そして米国はその真逆の「ローコンテクスト(非文脈依存的な)文化」の国。そうした背景となる文化の違いに「成熟した成人」という概念は大きく影響を受けるわけです。

この視点は「成熟した自閉スペクトラム成人」を考える上でとても重要な視点だということになります。それはつまり、現状の「神経学的多数派中心の日本文化」への適応という文脈を離れた、本質的な意味で「成熟した自閉スペクトラム成人像」を語る必要があるということです。

自閉スペクトラム者が99%の社会における「成熟した成人」

こういったテーマを考える時に私がよくする思考実験に「多数派入れ替え」というやり方があります。この考え方は「障害」とは何かを考える上でとても重要な発想だと思っています。

関連記事はこちら!
障害って何だ? 人が自由に空を飛べる社会を例に考える
「障害者」と位置づけられる人が最も少ない社会のあり方ってどんな社会だろう? 社会を構成するひとりひとりの生きにくさや困難や苦痛の総量が最も少なくなる社会って、どうしたら実現できるだろう?

今回のテーマで言うと「自閉スペクトラム者が多数派である社会」を仮定して考えるということになります。もう少し具体的に言うなら、「自閉スペクトラム者(自閉症スペクトラムというカテゴリーで呼ばれるタイプの人)が人口の99%の社会があったとして、その社会ではどんな人物が成熟した大人と評価されるのであろうか」という問いです。このことを考えることは、言い方を変えると、自閉スペクトラム者にとっての最も自然で理想的な発達や成長のあり方はどんな形なのだろうか、ということを考えることに繋がる視点だと思っています。私はこのことを自閉スペクトラム的定型発達という言葉で表現したりしています。

これは現状の社会や文化を基準にして、そこにどれだけ適応できているかという視点から「自閉スペクトラム者の成長や成熟」を考える視点とは根本的に異なる考え方です。

例えば、自閉スペクトラム者の特性として社会的な情報に意識が向きにくい傾向があったり、基本的に素直で正直、ものごとをそのまま字義通りに受け取るといった特徴が見られたりすることもよくあります。これらの事柄は、現状の社会においては社会的な経験が積み重ねにくかったり、「幼稚である、幼い」などと評価されることの要因になる可能性があります。

しかしながら、自閉スペクトラム者99%の社会ではこれらの特性や特徴は少なくとも「問題である」とはされないはずですし、その社会における「社会性」があるかどうかははきっと別のところがポイントになるはずです。

こんな現実には存在しない社会を仮定しての思考実験に何の意味があるのかと思われる方もおられるかもしれません。けれど前回も書いた通り私は、この議論はとても有益であり自閉スペクトラムと呼ばれる現象の本質を捉える論点であると感じています。

少なくとも自閉スペクトラムの子育て、教育、支援に関わる人間にとってはそのイメージこそが関わりの羅針盤となり、進むべき道を教えてくれる情報となるのではないかと思います。

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自閉スペクトラム文化特有の「成熟」はあるのか?

ここまで議論を進めると、次の疑問が湧いてきます。

現状の社会における「成熟した成人」と、自閉スペクトラム者が多数派である社会における「成熟した成人」に違いはあるのか、という問いです。

私個人としては「ある」と思っています。そしてその違いこそが、「脳、神経由来の文化の違い」の中身の部分だと思うのです。つまり、自閉文化という言葉は、自閉スペクトラム者を尊重するために作られた比喩表現などではなく、そこに確かに字義通りの「文化の違い」があるのだと私は考えています。

そして、文化の違いは優劣の文脈で語る話ではありません。この視点こそが自閉スペクトラムに関するニューロダイバーシティ視点の最も中核的な価値観やものの見方であると私は思います。

以上、「成熟した自閉スペクトラム成人像」を考える上での視点や論点整理をさせて頂きました。冒頭にも書きましたとおり、一体どんな状態が「成熟した自閉スペクトラム成人」なのかについて、私は答えを持っておりません。

ですが社会のあちこちで、特には自閉スペクトラム成人当事者のみなさまが、このテーマについて考え、議論し、発信することが増えることがニューロダイバーシティな社会の実現にとってとても大切で役立つ発信ではないかと思っております。そして微力ながら私もその一助になりたいと思う人間の一人です。

また、長くなってしまいました。

今日のところはこのこのへんで!

コメント

  1. Masaya より:

    分かります。僕もおそらくASD(未診断ですが、自己観察と他者の観察の双方から見て典型的なので間違いないと思われる)ですが、ASDから純粋にくる部分とその人個人の特性や精神年齢から来る部分とは明らかに区別すべき、だと感じています。
    僕の父も明らかなほどにASD的で家庭でトラブルが多いのですが、普通にASDだから、では説明のつかない個人的な短所もかなりあると感じています。僕は子供の頃から「人を大切にする」を母から教わり、ASD的に(生真面目に)それを本当に大事にしてきましたが、父には単純にその観点が欠けていると感じます。そこから来るトラブルがすごく多い感じで。父も僕も同じASDそのモノな言動をしていても、何か違う。家族から見ても違うようです。
    なんだか、カサンドラ症候群の話を聞いていると、ASDというのがいつの間にか「人格未形成」な存在、と置き換えられていく気がして。
    定型発達者にも人格未形成な人はいますし、ASDにも人格的に成熟した人はいるはずです。
    あくまで人格の形成とASDの有無は別方向のベクトルである、と僕も強く思います。

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