カサンドラ症候群について③ 異文化相互理解問題としてのカサンドラ

発達障害よもやま雑記帳

カサンドラ症候群について② の続きです。

その③にしてようやく私がお伝えしたいことの本題となります。長い前置きではありましたが、出来る限り誤解なくご理解頂くために必要な前提整理だとは思っております。

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異文化パートナーという視点

結論から書きますと、私はカサンドラ症候群について「異文化間パートナーシップにおけるストレス状況」と考えるのが最も妥当ではないかと考えています。妥当というのは、問題を乗り越えるということを考えた時に最もうまくいく確率が高くなる考え方ではないかという、私なりの仮説的視点を含んでいます。

生きやすさに繋がらない理解にはあまり価値はありませんからね。

異文化パートナーシップをもう少し一般的な例でお伝えするなら、文化圏がかなり異なる国同士の国際結婚なんかが一番近いイメージかと思います。例えば、アフリカの少数民族の方と日本人が結婚される場合などを想像して頂くとわかりやすいかもしれません。

文化が相当異なる国際結婚について私は詳しいわけではありませんが、全く違う文化圏で育った二人が家族になり、家庭を作り上げるということはとても大変なことだろうと思います。言葉だけでなく、常識も価値観も、金銭感覚も、食生活や子育ての常識も、なにもかもが根本から異なっている可能性が高いですからね。

カサンドラ症候群と呼ばれる状態も、構造上はこういった国際結婚に近いものがあると私は考えています。

ただ、やはり異なっている部分ももちろんあります。カサンドラ症候群と呼ばれる状態の根底は「脳、神経由来の文化の違い」であるため、国際結婚と比べると事前にそのことを想定しにくく、それが問題をより深刻化しているように思います。

国際結婚の場合、自分のパートナーが異文化者であることは理解した上で結婚されていることが多いと思います。ですがカサンドラの場合、そもそも結婚する段階で異文化パートナーと結婚した自覚も覚悟もないことの方が多いでしょう。

もっと言うと、そもそもASD者のような脳や神経のあり方の少数者(ニューロマイノリティ)に、「脳や神経由来の文化」が存在するという視点自体が、まだまだ市民権を得ていません。

ただ、私は確実にそれは存在すると考えています。次はそのことについてお話したいと思います。

脳、神経由来の文化とは

ここで言う「文化」とは、芸術や文芸作品のような目に見えるもののことではなく、人の価値観や思考様式のことです。学問で言うと文化人類学や文化社会学などで使われる文化という文脈に近いかなと思っています。(どちらも専門じゃないので違っていたらごめんなさい笑)

もう少し日常の言葉で言うなら、何を大切にして何を重視し、どんな行動をすることが「よいこと」だと考えるのかなど、生きていく上での基本的なスタンスのことだと思って頂ければと思います。

大事なことは、脳や神経のあり方の違いは価値観や思考様式レベルの違い、つまり私の言うところの文化の違いを生み出すということです。

もう少し脳や神経由来の文化をイメージしてもらいやすくするための例として「イナクティブマインド」という言葉で説明します。

これは「社会的な情報に対する反応性、もしくは過敏性」みたいな概念です。

例えば一枚の写真をパッと見たときに、いわゆる定型発達と言われる人はまず人の顔、特に目元周辺に視線が引き寄せられ、ASD者は人などの社会的な情報以外のものに自然に注意が向くことが多いんです。

これはほぼ無意識に起こることで、自然な脳、神経のあり方に由来する生来的な違いだと考えられます。

これを私は意識や注意の基本OSが違うとよく例えます。基本が違えば当然日常の生活様式や考え方の様式が異なってきます。同じものを見ても違うところに注目し、同じ体験をしても異なる感情を感じ、同じ問題に対して異なることを考える確率が高くなるということです。

だから、パートナーとの日常の様々な場面ですれ違いや意思疎通の困難が生まれます。これはどちらの責任でもなくただ違っていることが原因なので、乗り越えるためには相互に正しく理解することが必要になります。

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異文化相互理解の必要性

逆に言うとこの問題を、夫(妻)や恋人の障害理解や障害受容の問題と定義してしまうとうまくいく可能性が低くなってしまうと思っています。

なぜか、それは「あなたが普通じゃないから苦労してる」という想いを一方、もしくは両方が持っている限り、互いを対等に尊重する気持ちにはなりにくいからです。そしてカサンドラに限らず、対等ではないパートナーシップは崩壊しやすいです。どちらかが卑屈になってしまったり、負の感情を溜め込みやすくなります。

誤解して頂きたくないのは、ここで言う理解とは、「この人はこういう人なのだから仕方ない」という我慢や忍耐のためのものではなく、ベースとなる脳や神経由来の仕組みを知ることで「ああ、そう言うことね」「じゃあこうすればいいのかな」と前に進む感じを指します。

カサンドラ問題で言うと、愛情そのものと愛情表現を独立したものとして理解し、互いの表現様式を尊重するということだと私は思っています。(ここでは愛情そのものが根本的になくなってしまった状態ではなく、愛情があるのにうまくいかない状態を議論の対象とさせてもらいます。詳しくはその①をご参照ください)

「愛しているなら、こうするはず(しないはず)」「大切だからこうしてるのに、なぜ伝わらないのか」などは愛情と愛情表現を一体化しその繋がり方を相手に強要している時に起こりやすい発想と思います。愛情表現以外にも、意図と表現のあり方や結びつき方の違いを一度全てフラットに確認し、互いのあり方を理解し合うことが必要なのだと思っています。

その前提となるのが、自己内省や他者理解の意欲と能力です。つまり自分とパートナーが根本的に異なる存在であることを認め、その違いが具体的にどんな違いであるかを互いに探求し、また尊重しようとする姿勢と能力のことです。

私はこれは個人差が大きいと思っています。つまりASD者だから出来ないということではなく、ASD者でも定型発達と呼ばれる人でも出来る人と出来ない人がいることだと思います。

だから大事なことは「互いに」ということです。

どちから一方が極端に我慢しなくてはいけなかったり、どちから一方の文化が「正しい」とされ、誤った文化を「正そうとする」というようなことが起きるとカサンドラ問題はより一層深刻さを増していくのだと思うのです。

このことはとても大切な視点だと私は思っています。

また長くなってしまいましたので、今回はこのへんで終わりにしたいと思います。次回はASD者側からの視点のお話を書きたいと思います。

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