「見えないものはない」についての考察

発達障害よもやま雑記帳

こんにちは。

先日このようなことをTwitterでつぶやいたところ、非常にたくさんのリプライや引用RTを頂きました。自分の中に何かこの問いへの明確な解答が得られているわけではないのですが、今現在考えることが可能な限りの内容を整理して言語化したいと思います。

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ご意見の紹介

まずはこちらのテーマに寄せられた様々なコメントについて、私にとって学びや気づきが多かったものを中心にご紹介したいと思います。

いかがでしょうか?

もっともっとたくさん興味深いリプを頂いているのですが、紙面の都合上これくらいの紹介にさせて頂き、私なりの整理をさせて頂きますね。

「見えないものはない」とは?

まず、そもそもの「見えないものはない」についてご説明します。

これはいわゆる「発達障害あるある」の一つで、視界に入らないものが意識に上りにくいという傾向のことを指します。一般的には特に自閉スペクトラムにおいて語られることが多い印象がありますが、TwitterなどのSNS上ではADHDの特徴として語られることもよくあります。
「そんなこと、みんなそうじゃないか」と思われる方もおられるかもしれませんが、その程度がとても極端で、周囲の人が驚いたり不思議に思ったりするレベルだと思っていただければと思います。

もちろんこの「見えないものはない」は、精神医学上の診断基準の中には一切出てきませんし、自閉スペクトラムやADHDの人みんなが持っている特徴かと言われるとそうではありません。ただ、発達障害と呼ばれる現象を日常における「生活レベル」「感覚レベル」で理解しようと思った時に、こういった「あるある」について理解しておくことはとても大切なことだと私は思っています。

その上で、この「見えないものはない」ですが、自閉スペクトラム者もADHD者も見た目上、「見えていないものをまるでないかのように扱う、もしくは気づかずに過ごす」という非常によく似た行動特徴を示すことがあるということだと思います。

しかしながら、私には自閉スペクトラム者のそれとADHD者のそれは見た目上似ていたとしても、内側のメカニズムは相当に違うのではないかと感じています。この「見た目上とてもよく似ているが、内側のメカニズムが全く違う」ということを理解することは、発達障害と呼ばれる見えにくく分かりにくい部分のある現象の理解にとても重要な視点だと私は思っています。

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身体感覚を感じにくいことが与える影響

では具体的にどこがどうちがうのか。

確たる仮説が私の中にあるわけではないのですが、自閉スペクトラム者の身体感覚の特性が影響を与えている部分は少なからずあるのではないかと思っています。自閉スペクトラム者の場合「自分の身体」についても「見えなものはない」が起きることがよくあります。しかしながらADHD者の場合はまずそれは起きないかと思います。

そこで、まずは自閉スペクトラム者の「見えないものはない」について私なりに整理してみたいと思います。

例えば、こちらのツイートの方のように、自閉スペクトラム者の中には自分自身の体の感覚が薄く、自分のものだと思えなかったり、あるかないかがわからなくなったりするとおっしゃる方が少なからずおられます。つまり自分の体について「見えないものはない」が発動しているということになるかと思います。


なぜこのような身体感覚が生まれているのかについて、神経科学的な定説はまだ存在していないかとおもいます(私の知る限りではありますが)。原因やメカニズムはまだ解明されてはいないことが多いですが、現象としては当事者の方や支援現場においてわりとポピュラーな現象かと思います。そしてこのことが、自閉スペクトラム者の方の「(自身の身体以外の)ものごとの認識」にも少なからず影響を与えているのではないかと私は思っています。

実は「自分の体を自分の一部として実感を持つ」ということ、これは一般に考えられているほど容易いことではなく、割と簡単にその感覚は失われてしまうということが知られています。具体的には視覚的な情報と身体感覚の時間的な同期が重要で、ここが少しでもずれると自分の体を自分のものだと感じることが難しくなると考えられています。そう考えると「自分の体の感覚を感じにくい」という現象は、「とても特別な現象」ということではないのかもしれません。そしてそういう現象がは起きやすい神経学的な特性を自閉スペクトラム者の方が持っておられるということになるかと思います。

「見えないものはない」と身体感覚の関係性

さて、ここからは完全に私的な感覚の言語化なのですが(つまり根拠はないです笑)、少し考えを書きたいと思います。

具体的には、『自分の身体が見えないと体の一部が「そこにある」「自分のものである」「自分が動かしている」という感覚が消えてしまうことが多い、という体験を繰り返すことが、その人の世界に対する認識にどのような影響を与えるのか』というテーマについての推測です。

これ、よく考えてみると多くの人にとって、一番最初に「見えなくなっても、それはあり続けるのだ」ということを実感出来るものって、自分の体ではないかと思うのです。それはあまりにも神経学的多数派の人にとっては当然の経験なので、見落とされているだけで、自分の体(特には手や足などの末端部分)が視界から消えても「実感として」そこに「ある」という感覚が、後の「見えなくてもそこにある」という感覚の基盤になっているとしても、不思議なことではないではないかと思います。

そう考えると、自分の体以外の「対象物」に対しても、自分の体と近しい感覚で捉える傾向が生まれ、その結果「見えないものは(本当に)ない」という感覚につながると考えることも出来るのではないかなあ、などと思ったりします。

このあたりの考察をどう思われるかは、ぜひ自閉スペクトラム当事者のみなさまのご感想やお考えを伺いたいなあと思います。

ちょっと長くなってしまいましたので、ADHDについての比較はまた次回とさせて頂こうかと思います。

それでは今回はこのへんで!

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