発達障害を語る際に使われる「才能」という言葉について①

発達障害よもやま雑記帳

こんにちは。

今回は発達障害について語る時に言われることの多い「才能」について、私なりの考えを書きたいと思います。

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才能という言葉がよく使われる理由

自閉症スペクトラムやADHDなどの発達障害を説明する時に、「才能」とか「天才」などと言う言葉が使われることがあります。

その場合、発達障害かと思われる過去の偉人達が引き合いに出されることが多く、「有名な◯◯は実は自閉症」とか「✕✕はADHDの可能性が高い」などと説明され、「発達障害には特別な才能がある場合があります」などと続きます。

こういった説明は、これが出来ない、これが苦手というような能力の欠如という文脈で語られることの多い発達障害イメージへのアンチテーゼとして、発達障害を少しでも前向きに捉えてもらう為の説明なのだと思います。そして実際に天才的なパフォーマンスをあげられた発達障害当事者の方がおられることも事実です。ですのでこういった説明自体がよくないとは私は思いません。

しかしながら、私自身は講座や講演などでお話させて頂く際に、ほぼこういった説明の仕方はしません。それは、私なりに思う「才能」についての考え方がある為です。

才能は環境に依存するという事実

以前にこんなことをtwitterで呟いたことがあります。

【以下連続ツイート内容】

その意味で、のび太の才能の描写を「射撃」に設定した藤子不二雄さんの感覚ってとてもすごいなあと思ってます。射撃が得意という性質は現代社会で生活する上ではほぼ活用することが難しいですよね。あれはのび太が冒険をして初めて「才能」になるんです。冒険をしないのび太にはそれは才能じゃない。

その意味で、才能探しは環境探しなのだと思います。つまり、その人が活やすい世界を、多様な世界の中から探すこと。環境と切り離して人の内側をどれだけの眺めても、そこに才能を見つけることはとても困難なことなのだと思います

私は才能という言葉を、環境と切り離した「人の内側に存在する不変の(ポジティブな)能力」と捉えてしまうことはとてもリスクの高いことだと思っています。

「私には(この人には)何の才能もない」

「どこかに才能が眠っているはずだ」

「この子(人)の才能を見つけてあげなくては」

才能について考える時によくあるこれらの発想は人の内側に目が向きすぎており、刻一刻と変化する環境についてはあまり目が向いていていないように思います。

しかしながら、環境に目を向けない才能論はあまり意味がないように私には思えるのです。



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変化の激しい時代の才能論

元号も令和に変わり、これからの時代について私達は考えなくてはいけないわけですが、これからの時代について確実に言えることが一つだけはあると私は思っています。

それは今まで以上に世の中の変化が早く激しい時代になるであろうということです。変化か激しい時代とは、求められるものの移ろいが早く激しい時代と言い換えることが出来るでしょう。

それはつまり、今「才能」と呼ばれている特性が才能でなくなったり、今才能ではない特性が「才能」と認識されることがたくさん起こる可能性が高い時代なんです。

少なくとも、これからの時代を生きる子どもたちを支援する支援者や教育者、保護者は、そんな認識で子どもたちを見つめ、関わっていく必要があると思います。

例をあげて説明します。

かつて、テレビゲームがめちゃくちゃ得意とか、壁登りが圧倒的に上手であることって、少なくとも「才能」とは思われてなくて、大人たちからはむしろ「もっと他のところが得意なら」と思われてたと思います。

しかしながら、eスポーツが職業になりクライミングがオリンピック種目になることで、それらの特性は才能と呼ばれる時代になるわけです。

つまり、その人の内側にあるもののどれが「才能」であるかは、社会の変化によって変わっていくし、その人が今どんな「環境」にいるかによっても大きく影響を受けるということです。

だから才能を見つけるという行為は、内側を理解することとほぼ同等に重要なこととして「環境」について知らなければならないのだと思います。

こういった発想や見方は才能を語る上でとても大切な視点だけれど、あまり重視されてこなかった視点のように思います。

このテーマ、まだ書きたいこといろいろありますが長くなってしまいましたので今回はこの辺にしたいと思います。

では!

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