発達障害を語る際に使われる「才能」という言葉について②

発達障害よもやま雑記帳

こんにちは。

前回の記事では、才能と呼ばれるものが非常に環境依存的であり、その為時代の流れに影響を受けやすいものだということを書きました。

今回は特性という言葉をキーワードに、私なりの考えについて書いていきたいと思います。

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才能と特性の関係性

まず最初に、才能と特性の関係性について私なりの整理をしておきたいと思います。私の理解で言うと、特性と才能の関係を以下のように考えています。

才能 = 特性(たち) ✕ 環境からの要請

ある特性が人に備わっていて、その特性がその人を取り巻く環境から「求められている場合」、その特性が備わっていていることが才能と呼ばれる。

こういうふうに言ってしまうとまあ、当たり前のことを言っているように思われるかもしれませんが、改めて整理することは大切なことだと思います。

前回の記事では主にこの式の後半部分の、環境からの要請がなければ才能と呼ばれないという話をしました。

今回は前半の「特性」について考えてみたいと思います。

「特性」とは評価以前の特徴や性質のこと

発達障害について話がなされる時、この「特性」という言葉もまた非常によく使われる言葉だと思います。

ただ、この言葉についても使用する際に注意の必要な言葉だと私は思っています。具体的に言うと特性ではないものが特性として語られてしまっていることが多いように思うのです。

(自閉症について)「他者とうまくコミュニケーションが取れないという特性があります」

(ADHDについて)「忘れ物が多い、片付けられないなどの特性があります」

などという説明を聞いたり、読まれたりされたことはないでしょうか? 私に言わせると、これらの説明は「よくある困難」の記述であって特性の説明にはなっていません。むしろこれらを「特性」として説明してしまうことに強い違和感と危機意識を感じています。

特性とは、困難や問題、もしくは逆に成果や成功の背景に存在する、その人の内側の特徴や性質のことのはずだからです。言い換えると、良い、悪いなどと言った「評価」以前のこととして「その人の内側にただ存在する特徴や性質」が特性なのだと私は思っています。

つまり、一つの特性がある環境では困難を生み出し、また別の環境では成功や成果の源泉であるということが起こり得るということです。

このことは、発達障害と呼ばれる現象への支援を考える上でとても大切なテーマだと私は考えていますが、今回の論題である才能論と離れていってしまいますので、また別の機会に書ければ書こうかなと思います。


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才能の源泉となる「特性」を考えることの重要性

話を才能論に戻したいと思います。

その人の内側にある特性たちが環境に求められた時に才能と呼ばれるのだとしたら、才能と呼ばれるその人の能力がどんな特性によって構成されているのかを理解するということもまた、とても大切な視点となるはずです。

例えば、前回例に出したのび太くんの「射撃の才能」はのび太くんの持つどんな特性によって支えられていると考えられるでしょうか?

作者の藤子不二雄さんがそこまで考えてキャラ設定をされたかどうかは存じ上げませんか、勝手に心理屋的な考察をしてみたいと思います笑。

射撃がうまいということは、注意集中の短期的な瞬発力は高そうです。ADHDの不注意優勢型の代表キャラのように言われるのび太くんですが、数秒単位の短い時間だけ即座に強く自分の注意をコントロールすることは得意なのかもしれません。

また、いわゆる「目と手の協応」と呼ばれる神経系の働きも優れている可能性が高いかもしれません。射撃でうまく的に当てるためには目で見た情報と手先の動きが精密に連動していないといけないからです。

などなど、分解していくと一つの「〇〇の才能がある」ということが多くの場合、複数の特性の集合体であるということがおわかり頂けましたでしょうか?

才能は特性に分解することが基本的には可能であり、それらの特性たちが求められ、必要とされる環境にいることで、「才能がある」と評価される。

発達障害と呼ばれる現象について「才能」という言葉を使う場合、少なくともここまで論じてきたようなことを前提として理解しておかないと、どうも偏った、あまり生産的でない話になってしまうのではないかというのが、このテーマに関する私の基本的な考え方です。

また長くなってしまいましたので、今回はここまでとしたいと思います。一回限りの単発記事のつもりで書き始めたテーマですが書いていくといろいろ書きたくなるものですね。まだ書きたいことはありますので少なくともあと一回はこのテーマで書きたいと思います。

では!

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