発達障害を語る際に使われる「才能」という言葉について③

発達障害よもやま雑記帳

こんにちは
才能論のその③です。

前回までで才能というものが、特性と環境からの要請という2つの要素に分解できることを説明してきました。今回はこのテーマの本題である、発達障害と呼ばれる人たちを才能という観点から考える場合の考え方について、私なりの考えを書いてみたいと思います。

私の職業柄、基本的な視点は支援者としてになりますが、保護者やご家族の方から見ても基本的には同じことが言えるのではないかと思っております。

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まず知るべきは「才能」ではなく「特性」

第一回で私は発達障害について語る際にほとんど才能という言葉を使わないと書きました。それは支援者としてまず知るべき、理解すべきはその人の才能ではなく特性だと考えているからです。

そして大事なことは(前回も書きましたが)、特性自体には良いも悪いもないことです。もっと厳密に言うなら、「社会や文脈からの評価以前に、ただその人の内側に存在するその人の特徴」を理解するという姿勢が大切なのだと思っています。

具体例をあげましょう。

例えば記憶という人の能力に関しても様々な特性が存在しています。よく知られているようなことを例に出しましょう。

Aさん:

目から見たものをそのまま映像的に記憶することが得意

耳から聞いた言葉や音を言葉や音として記憶することが苦手
    
Bさん:

耳から聞いた言葉や音を言葉や音として記憶することが得意
目から見たものをそのまま映像的に記憶することが苦手

記憶力がよい悪いなどと単一の能力として語るのではなく、能力を様々な特性に分解して考えると、より様々な側面が見えてくるわけです。そしてくどいようですがこれらの特性自体によいも悪いもありません。

そして発達障害とよばれるタイプの人たちを理解する(自己理解も含む)際に、この特性という視点はとても重要だと思っています。

それはなぜか。

それは特性が「外れ値」と呼べるような状態である可能性が高くなるからです。「外れ値」とは統計用語で、平均から突出して離れている値のことを指す言葉です。つまり特性としての特徴の程度が一般的に考えられている範囲を超えていることがよく起こるわけです。

先ほどの記憶の例でいうと、Aさんの特性もBさんの特性も特に珍しいものではありません。しかしながらその傾向があまりにも顕著であると、その特性が持つ影響力はとても大きなものになります。Aさん特性が非常に顕著である場合、どれだけ言葉で説明されても「覚えられない」ということが起こるわけです。また逆に視覚的に飛び込んできた映像イメージが「忘れられない」ということも起こるかもしれません。

「外れ値レベルの特性」は障害にも才能にもなり得る

その意味でその人の特性を理解すること、特にいうと「外れ値レベルの顕著な特性」を理解することは、その人の元々の性質を正しく理解することにつながります。そしてこの外れ値レベルの特性は、その人にとっての「障害」の元にもなりえますし、「才能」と呼ばれる能力の元にもなり得るということはとても大切な視点であると思っています。

例えば、先ほどのAさんの特性の場合、例えば絵を描いたり映像的な作品を作ることには、Aさんの記憶に関する特性がとても有利に働くかもしれません。一方で、講義や講座で視覚情報の乏しい中でものごとを学ぶ環境に置かれると、もしかしたら「障害」と呼ばれるレベルで困難を引き起こすかもしれません。

同一の特性であっても、環境や周囲からの要請によってそれはプラスにもマイナスにも評価されうるのです。


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才能探しの落とし穴

そう考えると、才能という言葉は常に評価の側面がついて回わる言葉です。つまり「これはいいいこと。これはわるいこと。」が決まっている場合にしか使えない言葉です。その為「この人に眠る才能をさがそう」とか「自分にも何か才能があるはずだ」などと考える場合、すでに世の中で流通している「評価される可能性の高そうな能力」にだけしか目を向けない可能性が高くなります。

そういった発想は特性を正しく理解するには生産的ではないスタンスだと私は思っています。目を向ける対象が狭くなりますし、見つからないと「私には何の才能もない、ダメな人なのだ」などと、ネガティブな発想にもなりやすいです。

よいか悪いかは置いておいて、その人の顕著な特徴を構成している要素を正確に理解することが、その人の生きやすさを向上させていくことを考えていくうえで、まずは必要なことではないかと思います。

特性を知り、環境を探すことで「才能化」を目指す

そして、たくさんの特性を見つけたうえで、その特性が「活きる環境」を探していくことが大事になるのだと思います。ある環境では「障害」でしかなかったことが、環境が変わることによって「才能」と認識されることすらも起こり得ることだと私は思っています。

つまり才能とは、人の中に眠るいくつかの特性が活かされる環境を見出すことにより開花することであり、もともと人の中に「才能」として眠っているものではないのだと思うのです。

特に「外れ値レベルの特異な特性」については本当に取り扱いを注意しなくてはいけません。なぜなら、一般にあまりみられないような顕著な特性を「そんなことはあり得ない」「普通じゃないからおかしい」などと考え、否定してしまう傾向がやっぱりまだまだ根強いからです。そうなるとそれはもう「障害」としか捉えられなくなるかもしれません。

すべての人が自分の特性を理解し、また相互に正しく理解しあい、特性たちを活かしあう環境を生み出そうとする。そんな社会や時代になって欲しいと強く願っています。またそのために出来ることを頑張ろうと私個人としては考え、こういった発信を続けています。

気が付いたら長くなってしまいました。今日のところはこのへんで。

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