こんにちは
かなり間が空いてしまいましたが、自閉スペクトラム者と「想像力」について続きを書きたいと思います。
前回は想像力という言葉の混乱について書きました。今回はより本質的に想像力の困難と呼ばれている領域において「何が起きているのか」を掘り下げたいと思います。
苦手なことが多いのはどれ?
前回の最後に、想像力と表現できる内容は少なくともこれくらいには分解できるのではないかと書きました。今回はそれらのうち、全体的な傾向として自閉スペクトラム者の方が苦手とされるものと、そうでないものに分類するところから論考を始めたいと思います。
- ある場面における次の展開を予想すること
- 他者の感情や思考を推測すること
- 自分の言動が他者に与える影響やその結果を推測すること
- 架空の想定の中の人物の心情を推測すること
- 文字や聞いた言葉から視覚的なイメージを想起すること
- 物理的、化学的な法則性に則った因果関係を予想すること
- 新しいアイデアを思いつくこと
異論がある方もおられるかもしれませんが、私なりの結論を言うと、2、3、4が自閉スペクトラム者の方が苦手とされることが多く、5、6、7が苦にされない、もしくはむしろ得意とされる人も多い領域だと思います。
1が残ってますが1は「場面による」だと思います。
さて、同じ想像するという言葉でカバーできる内容のこれらは何が違うのでしょうか。その答えは前回ご紹介したローナウィングさんの言葉の中にヒントがあります。ローナさんの三つ組では日本語に訳すと単に想像力と訳されてしまうことが多いのですが、もともとは「social imagination」という言葉です。
そう。直訳するなら「社会的想像(力)」というのが、元々のウィングさんの意図していた言葉のニュアンスなわけです。
社会的想像とは?
では、社会的な想像力とは何でしょうか?
それは「にんげん」に関連することを想像することだと私は思っています。具体的に言うなら「他者の内側で起こっている見えない何か」や、「未来の他者の行動」を想像することと言えるかと思います。そして、これは自閉症スペクトラムの「障害」の中核症状と呼ばれる社会性の部分とも重なり合う概念です。
先程のリストを考えると、2〜4と5〜7の一番の違いはそこに「にんげん」が関与しているかどうかですよね。そして1について「その時による」と私が言ったのは、次の展開を考える時というのは、「他者がどう感じ、どう考えるか」ということを考慮すべき場面とそうでない場面が両方含まれるからです。
他者の内側を想像して動かないといけないときに、自閉スペクトラム者の方の特性が困難として出てきやすいと言うことになります。
しかしながら注意しなくてはいけないのは、より厳密に言うと自閉スペクトラム者は「他者の内側を想像すること」自体が苦手なわけではありません。
実は神経学的多数派の人の内側で起こっていることを感覚的に感じ取ることが苦手なのです。もっと言うと「自閉症スペクトラム傾向のない人、もしくは薄い人」がどう感じ、どう考え、どう振る舞うのかを自然に想像し感じ取ることが苦手なのだと言うことになります。
以下の記事で紹介されている研究のように、自閉スペクトラム者同士においては自閉スペクトラム者が神経学的多数派の人たちとの関わりと異なる直観的な相互理解や共感が起きると考えられています。
そもそも人が他者の内側を想像することには限界があります。どんな人でも読み違えたり勘違いすることくらいあるでしょう。
そう考えると、少なくとも定型発達と呼ばれる人たち同士で起こっていることくらいのことは、自閉スペクトラム者同士でも起こっている可能性が高そうだということになります。
想像力の困難は「障害」なのか?
ここまで読んで頂けますと「あれ?自分と大きくタイプが違う人のことを想像するのが苦手なのは当たり前じゃない?」と思われる方もいらっしゃるかと思います。
実はその通りだと私は考えています。私はそのことを「脳や神経由来の異文化相互理解」と常々表現しています。つまり人口の99%が自閉スペクトラム者である社会が存在すれば、想像力の困難と言われていることの大きな部分は自然に消滅する話だと私は思うのです。
ただ、この想像力の話はここでは終われません。前回ご紹介したように、ローナ・ウィングさんが元々想像力という言葉を、想像力の困難による見通しの困難と、それに対する対処としてのこだわりや常同行動という文脈で考えていたことを思い出して頂きたいのです。
この、見通しの困難やこだわり行動と想像力の関連性については次回に書きたいと思います。長くなってしまいましたので、今回はこの辺で!