「叱る」の限界と依存性について

心理士パパの子育て、教育、対人支援もろもろ雑記帳

こんにちは。

今日は「叱る」をテーマに少し私なりの整理を書きたいと思います。きっかけはこちらのツイートからの連ツイです。

あまりにも当たり前のように使われる叱るという行為の、限界と依存性についてもう少し詳しく書きたいと思います。

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叱るへの過信

子育てや教育において、どうも「叱る」という行為の効果や影響力がその実力よりも過大評価され過ぎているように私には思えています。

分かりやすい例として、何か不適切な行為を子どもがしてしまった時に、直後に親御さんが分かりやすく「厳しく叱る」という行為をされなかった場合

「なぜちゃんと厳しく叱らない」「叱らずに甘やかすからこんなことをするのだ」「最近の親は叱ることが出来なくなっているから問題が起きるのだ」などど周囲から責められてしまうことがとても多いように思います。

え?当然じゃない?と思われる方もおられるかもしれません。けれど私に言わせるとそれはちょっと「叱る」という行為の効果を過大評価しすぎていると思います。叱るという行為は、世間一般に考えられているほどの効果はありません。そして好ましくない副作用も多い取扱注意な対応かと思います。

この辺は学術的な裏付けもかなり豊富にある領域の話になりますが、今回は出来る限り専門用語や学術的な理論を使わずにご説明してみたいと思います。

叱るとは本質的に何か?

叱るという行為について語りますので、ここで叱るとは何か?について整理しておきましょう。いろいろと考え方はあるかと思いますが、ここでは「何らかのネガティブな感情体験を与えることで相手をコントロールしようとすること」という意味で使いたいかと思います。ネガティブな感情とは、恐れや不安や恐怖、苦痛などです。

「そんなことはない!相手にネガティブな感情を与えなくても叱ることはできる。」と思われる方もおられるかもしれません。ですがそうでしょうか?相手の行動に影響を与えコントロールしようとする行為には「指示する」「注意する」「説明する」「説得する」「(問題を)指摘する」「宥める」「指導する」などたくさんの言葉たちがあります。そういった言葉ではなくて敢えて「叱る」という行為でないといけない場合に、本質的な違いは相手の「感情体験」にあるのではないでしょうか。ネガティブな感情を与える必要がないなら、そもそも叱る必要がないということになります。

少し本題から逸れますが、「怒るは駄目だけれど、叱るは必要」という、子育て論や教育論でよく言われる説明についても私は懐疑的です。よく言って「怒るは論外、叱るは怒るよりはましだけれど効果が薄い。そしてどちらも副作用が強い。」という感じかと思います。ネガティブな感情を与えてコントロールするという意味ではそう大きな違いはないかと思います。

叱るが最良の方法と誤解されるカラクリ

さてここからは、叱るにはあまり効果がないこと。また効果が薄いのになぜか、それが最も効果的な方法であると誤解されてしまうことが多いことについてご説明したいと思います。

まず、行動上の問題がなぜ起きるのかについて分類してみましょう。多くの場合、行動上の問題には未学習か誤学習が背景に存在しています。未学習とはその時その場でどう振る舞えばいいのか「まだ知らない。」「身についていない。」などという状態のことです。そして誤学習とは、何らかの場面において「不適応な振る舞いを学んでしまった」「適応的な振る舞いは知っているが、不適応な振る舞いをするほうがメリットがあると感じている場合」などが挙げられます。場合によってはその両方が同時に存在することもあり得るでしょう。

そしてこのどちらに関しても「適応的な振る舞いを身につける」という目的に対して「叱る」という行為は最良の方法からは程遠い方法です。

未学習なら1からどうすればいいかを説明し、身につける手伝いをすべきでしょうし、誤学習の場合は誤って身につけてしまった方法を他の方法に置き換える手伝いや、より適応的な行動により大きなメリットをつけてあげることなどのほうがはるかに効果的です。

しかしながら、叱るという行為が最も効果的であるかのように感じられてしまうのは、それはその即効性に大きな原因があります。叱る、つまりネガティブな感情を与える行為は短期的かつ即効性の高い変化を起こせます。つまり、叱ったらとりあえずその場では何らかの行動をやめたり、始めたりしてくれるわけです。そのため、叱るという行為には高い「効果」があるような誤解が生まれます。

しかしながら、叱るが引き起こす行為は単なる「苦痛からの逃避」に過ぎません。未学習も誤学習も何も解決していません。だから、叱られた人はまた同じことを繰り返します。即効性はあるが解決にはなっていないわけです。

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叱るという行為の「依存性」

そして、叱るという行為にはいくつかの理由により嗜癖性や依存性が存在しています。つまり癖になってしまうのです。

依存性の1つ目は、即効性が低くなることから起きます。これは叱られる方に起きる耐性とも呼べる変化によるもので、今までだったら行動をやめたり、起こしたりしてくれていたことがだんだんしてくれなくなるわけです。そうなると、より強いネガティブな感情を与えなくてはいけなくなります。どんどん叱るという行為がエスカレートするわけです。

そしてさらに難しいことに、相手にネガティブな感情を与えてコントロールするという行為には、行為をする側に心理的な充足感を与えてしまう側面があります。言い換えるなら気持ちよくなってしまうということです。

こう言うと何か一部の特殊な人に起こる現象のように思われるかもしれませんが、叱ることで気持ちよくなってしまうという現象は私を含め多くの人に普遍的に起こる現象であり、なんら珍しいものではありません。特に相手が殊勝に頭を垂れ反省した様子を見せてくれたりなんかしたら効果テキメンです。

これらの要因により、叱れば叱るほどそれは嗜癖化していき、依存的な状況を生み出します。

けれども先程お話したようにそこには問題解決への効果は薄い。そのことには多くの人が気が付きます。「叱るだけではだめなのではないか?」「自分のやっていることは正しいのか?」「こんなにちゃんと叱ってるのに、なぜこの子は学ばない?」こんなことが頭によぎるわけです。しかし、すでに叱る依存に陥っている人は簡単に「叱る」をやめられない。

そこに叱るという行為を正当化したいというニーズが生まれます。

叱るを正当化する社会

その結果、現代社会には「叱る」を正当化する言説に満ちています。

「厳しく叱ることは愛情の裏返し」

「本当は叱りたくなんかない。この子の為に心を鬼にして叱っている。」

「子育てできちんと叱れず、甘やかして育てたら調子にのってロクな大人に育たない」

「ちゃんと叱らないからこんなことするんだ。親の怠慢だ。」

「自分の感情をぶつけるだけの「怒る」は駄目だが、相手のためを思って行う「叱る」は大切だ。」

などなど、探せばいくらでも出てくるでしょう。でもこれららは典型的な「叱るの正当化文例」です。叱るという行為を手放せないから、もっと言えば手放したくないからそう言うわけです。

実際叱るにそこまでの効果はありません。叱るという行為は、主に叱る側のニーズを満たすための行為であるということを自覚する必要があります。つまり、叱りたいから叱っているか、目の前の即時的な変化の為に叱っているだけで、本質的な問題の解決のために叱っているわけでないわけです。

そして、この正当化はどんどん社会の規範に組み込まれていきます。そりゃそうです、叱るという行為をみんなで正当化してしまえば、堂々と叱ることが出来ますからね。かくして、叱るという行為は行動問題への最適解であり、それをしない場合は育児や教育の怠慢であるという認識が浸透していくわけです。

最後に、誤解がないようにお伝えしておきたいのは、今回私がお伝えしたいことは「叱ってはいけません。褒めて育てましょう。」みたいな手垢のついた標語のことではありません。これは本音では「(本当は一番効果あるけれど)叱ってはいけません。(道徳的、倫理的にそっちのほうが望ましいから)褒めて育てましょう」と認識している人も多いのではないかとも思います。この認識だと叱るをなかなか手放せません。

もっと言うと「叱ったら絶対駄目!」でもないんです。目の前で問題となる行動をされてしまったら、そりゃ緊急避難的に叱るという選択をしなくちゃいけないことだってあります。それを否定したらどうしたらいいのかわからなくなってしまいます。

今回お伝えしたいのは「叱るは問題解決には効果が薄い」であり、「叱るは簡単に依存化する」ということです。叱るに対する依存状態が長期化すると、どんどんエスカレートして暴言化したり暴力的になったりしてしまいます。これは誰にでも簡単に起きてしまう、普遍的な現象です。だから叱るが常態化することを絶対に正当化してはいけないと思うのです。

大事なのは、そもそも叱らないといけない状況を減らすために何ができるかであり、その為の手立てや発想をどれだけ豊かに持ち合わせているかということになります。

気がついたらかなり長くなってしまいました。

副作用のところはあまり書けていないのですが、それは次の機会にしたいと思います。今回はこの辺で!

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