こんにちは。
叱るに関する前回記事にたくさんの反響を頂きました。それだけこのテーマに関心を持たれている方が多いのだと実感しています。今回はその続きを書きたいと思います。
前回は「叱る」の効果が限定的であることと、叱る側に依存性があることについて書きました。今回は叱ることによって起きる「副作用」と、叱る依存から抜け出そうとすることの葛藤や難しさについて書きたいと思います。
「叱る」の副作用
もう一度本記事における叱るの定義をお伝えすると、「叱る」の本質的な意味を「ネガティブな感情体験を相手に与えることで相手をコントロールしようとすること」と考えています。この定義では叱る側の人の感情は問いません。なので、叱る側は冷静に感情的にならずに叱ることは可能です。ここがいわゆる「怒る」との違いと言えるかもしれません。
ただ、叱られる側には確実にネガティブな感情体験が起こります。実はこのネガティブな感情体験が叱るの副作用の主たる原因となります。
叱るを正当化することで叱る側が叱る依存に陥ると、叱られる側が日常的に叱られ、ネガティブ感情を経験し続けるということが起きます。また前回書いたように、叱る依存状態が長引くと、多くの場合叱る行為はどんどん激しくなります。暴言化したり、時には暴力に至ることも珍しくありません。それは叱られる側が強いストレス状況に晒され続けるということを意味しています。
そんな中で起こる代表的な副作用は、叱られる側が「苦痛やストレスから逃れること」しか考えられなくなるということです。本来、叱る側は相手に何かを学んでほしかったり、身につけてほしかったりするから叱っているはずです。しかしながら、慢性的な苦痛の中にいる人は「自分が何を学び、何を身につけるべきか」なんて考えられません。そんな余裕はないんです。ただただ苦痛から逃れることだけが頭の中を占めていきます。これでは全く本来の目的を果たせていないわけです。
つまり、慢性的な叱られ体験の中で人が学び成長することは、とても困難なことであるということなのだと私は思っています。また、慢性的な苦痛からの逃避願望は各種依存症のリスクを高めることが指摘されていることも加えて書いておきたいと思います。
マルトリートメントの脳への影響
そしてさらに、最近の脳科学の研究ではより深刻な影響についても指摘されています。それは慢性的な強いストレス状況が脳の健全な発達を阻害する可能性の指摘です。ここまで来ると副作用という言葉では軽すぎる悪影響と言えるでしょう。
昨年、所属する児童青年精神医学会に参加した時に、日本における本領域の研究の第一人者であられる友田明美先生によるご講演を拝聴する機会がありました。そして、この問題の深刻さについてとても深く考えさせられたことを鮮明に覚えています。
友田先生は「マルトリートメント」という言葉で、不適切な養育行動について説明されています。この言葉は虐待という言葉よりも、より日常的で広い範囲の不適切な養育行動を指す言葉です。例えば子どもの目の前で行う激しい夫婦喧嘩などもマルトリートメントの例とされています。そして当然、躾と称して行われる言葉の暴力もマルトリートメントと断じておられます。
叱る依存の先にマルトリートメントがあり、それが脳のダメージや発育の問題に繋がるかもしれないという可能性は、決して無視できない知見ではないかと思います。
ここまで、叱るという行為の副作用という文脈で、考えられる悪影響の可能性について書きました。
ここで念の為、再度私の伝えたいことを書いておきます。私は叱るという行為の禁止を訴え「絶対にやっちゃだめ」と言いたいわけではありません。私を含め、叱るという行為を一度もしたことがない親や教育者など存在しないと思いますし、叱るがどうしても必要な場面があることも否定できない事実かと思います。
私が伝えたいのは、叱るという行為を正当化し、「子ども(相手)のためだ」とすることをもうやめよう、ということです。叱るを正当化すると、いつまでたっても叱る依存から抜け出せません。可能な限り叱るを手放そうとする努力と向き合う必要があるのだと思います。
叱るを手放す恐怖
前回の記事を書いてたくさんの反響を頂くことで気づけたことがあります。それは「叱る」を手放そうとすることに強い抵抗感や恐怖と言ってもいいくらいの負の感情を感じられる方が少なからずおられるということです。
「叱る依存の正当化欲求」や「叱るを手放す恐怖」は相当根深いのだなあと感じています。
例えば叱るを手放すことに抵抗感を感じておられる方の代表的な主張として
「躾を放棄するのか!」
「迷惑行為を甘やかすのか!育児放棄だ!」
などがあります。
しかしながら、これではまるで「叱る」ことが、子どもたちの躾、つまり社会的な規範を学ぶための唯一の方法であるかのようです。けれども叱るという方法を用いなくても、子どもたちの不適切な行為を予防したり、適切な行動を学んでもらうための方法はたくさんあります。(このあたりは次回に詳しく書きたいと思っています)
また、正当化することが良くないとは考えていても、実際問題「ではどうしたらいいかがわからないから不安」という方も少なくないのだと思います。この不安はとても強くて、根深くて、子育てや教育の難しさを生んでしまう大きな要因の一つになってしまっているように思います。
それらに理解が及ぶことで、この問題の本質は「叱る以外の方法で他者の行動を変化させる方法がわからない、想像も出来ない」という点にあるのではないかと思い至りました。もしそうだとすると、この問題は本当に重要で深刻なテーマなのだと感じます。
なぜ「叱る」以外がイメージ出来なくなるのか?
ここからは、私の推測になります。
叱る以外の方法が考えられなくなることの背景の一つに「叱らずに褒めよう」という言説があまりにも安易に浸透しすぎていることがあるのではないかと思っています。叱ると褒めるが対比され強調され過ぎてしまうことで「叱るをしない=褒めなくてはいけない」という図式が強くインプットされてしまうということになります。
叱るという行為をしたくなるのは、子どもたちが不適切な行為をした時です。その瞬間に「叱っちゃだめ」と思うと同時に「この状況で褒めるなんてありえない!」と感じるということになります。「叱っちゃだめだし、褒めるもありえない=どうしていいかがわからない」という構図です。
しかしながら、「叱る」も「褒める」も子どもたちの学びの過程という全体像の中で言えは、ごく一部分に過ぎません。具体的には、子どもたちの行動の後にするフィードバック部分の方法論の一つということになります。ちなみに私はこの部分を「後さばき」と呼んでいます。
後さばきも、もちろん子どもたちが適応的な行動を身につける為にとても重要ですが、当然すべてではありまん。むしろ行動の前に行う「前さばき」のほうが重要な場合も少なくありません。
叱るを手放し叱る依存から脱出するためには、叱る以外の方法で、そしてそれは「褒めて育てましょう」というような単純化された標語のみに頼らない、子どもたちの行動を支援する方法論が豊かに伝わっていくことが大切なのだと思います。
次回は「前さばきで」「後さばき」を含めた関わり方の考え方について書ければと思います。今回はこのへんで!
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