コグトレ記事への批判的考察③ー結局何が問題なのか

心理士パパの子育て、教育、対人支援もろもろ雑記帳

こんにちは

コグトレ記事への批判的考察の続きです。前回は認知機能という言葉の便利使いについて具体的に例をあげてご紹介しました。今回は、そういったいい加減な言葉の使い方や効果の定かではない「トレーニング」を、支援・教育現場で盲信することで起こりうる問題について整理しておきたいと思います。問題が起きた場合に被害を被るのは最終的に子どもたちなので、とても大事なことだと思っています。

ただ、前提として私は、コグトレそのものが「害のあるもの」「絶対にしてはいけないもの」とは思っていません。特にプリント教材は使い方次第では学習場面で有益に用いることも可能だと思っています。例えば、学習に拒否感のある子どもの導入教材として使用する場合などです。

(ちなみに弊社団が発行している発達障害学習支援サポーター資格でも、最上位資格のエキスパート資格の養成講座にて認知機能トレーニング(≠コグトレ)の学習場面での効果的な用い方や、近年の研究結果から考えられる効果と限界についても取り扱っています。詳しくはこちら

ですが、使用する大人側のリテラシー次第では、子どもたちに害を与えてしまうような用いられ方がされることも少なくないと考えます。

ではここから、結局何が問題なのか、私なりの整理をお伝えしたいと思います。

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意味のない努力を強いることの弊害

まず最初にお伝えしたいことは、「害はない」かもしれないが「役にも立たない」可能性が高い取り組みを、子どもにトレーニングとして与えることの弊害です。既にお伝えしたように、少なくとも、「認知機能そのものが向上し、生活上の課題が解決される」というエビデンスは非常に乏しいのです。つまり、頑張っても何も問題や課題が解決されない可能性が高いということです。

ただし、この弊害はとても目に見えにくい傾向があります。

例えば、学校や塾などの教育場面で、指導者が「コグトレで認知機能が向上し、この子のためになる」と日々、プリント教材の取り組みをしている状況を考えてみましょう。その場合指導者が、伸ばしたい認知機能は「見る力」で、見る力が弱いから「友人関係がうまくいかないのだ」などと、考えているかもしれません。なにせ、そういううたい文句で売られていますから、そう信じてしまったとしても不思議はないのです。

ここで問題なのは、子どもさんが頑張れば頑張るほど目に見えて「成果」は出るが、問題は解決しないという構造です。具体的には、「見る力」を鍛えるという、そのプリント自体はどんどんうまくなるのです(もちろんならない場合もありますが)。そのため、指導者は「よしよし、頑張っているな」などと満足するかもしれません。その意味でとてもうまくいっていると思える状況なのかもしれません。

けれども、本来の目的である「対人関係の課題」は何も改善しません。そりゃそうです。そもそも、そんな(遠転移の)効果は期待できないのですから。もっと効果がありそうに思える「黒板を書き写す力」すら、上手にはならない可能性が高いです。そしてそのプリントを頑張っていた時間は本来、課題解決や別の目的のために使えたはずの時間です。さらに問題なのは指導者が「トレーニングで認知機能が向上し、課題解決に近づくはず」と盲信してしまい、課題解決がなされない理由を「子どもの努力不足」と考える場合です。そうなると、どんどん無意味な努力を子どもに強いることになってしまうでしょう。

最悪なのは、子どもがその努力を「いやいややっていた」場合です。楽しく取り組んでいたとしても、問題がないとは言えませんが、本人が望まないことを必要なトレーニングだと言ってやらせるようなことは、絶対にあってはならないことだと私は思っています。その場合は明確に「害がある」と言えるでしょう。

安易に「子どもの認知機能のせい」にされてしまう弊害

子どもたちに不要な努力を強要し貴重な時間を無駄にすることも問題ですが、さらに深刻なのは特定の認知機能に責任を負わせてしまう安易な発想のように私は思います。なんでもかんでも「子どもの認知機能が原因」とされてしまうようなことが起きたら、その弊害は計り知れません。

ここからは少しややこしい話なので順を追ってご説明します。

認知機能とは、人間の情報処理システムやその機能のことを指します。そして人間はなんらかの情報処理をすることなしに、行動することは出来ません。つまり、人間のありとあらゆる活動に、その人の認知機能のあり方が影響を与えています。その意味では、人に起きるどんな問題や課題についても、「認知機能の問題」があるのではないかと疑うことが可能です。

しかしながら、その視点が子どもたちの抱える課題や問題の解決に役立つかどうかは、まったく別の問題です。認知機能以外の視点で考えた方が、よりよい対応につながるであろう状況がたくさんあるからです。例えば、いじめ問題や対人関係トラブル、社会的ひきこもりなどはその典型例でしょう。コグトレの言う、「見る力」「聞く力」「注意力」などをトレーニングするよりも、もっと先にやらなくてはいけない対応がたくさんあります。

より影響が強いと考えられる学習課題に関しても、トレーニングの発想より、その子の認知特性に合った方法を選択することのほうがはるかに重要で役に立つことが多いです。むしろ、安易に認知機能をトレーニングする発想に走るのは、弊害が大きすぎるのでおすすめできません。

以上をまとめると、あらゆる問題の背景に認知機能の影響を考えることは可能ですが、そこに原因を求め「認知機能の向上」に取り組むことが最善の策である状況は、非常に限られているのです。

大人は何も学ばない、何も変わらない...

最後に、絶対にはずせない重要な弊害である、大人側に起る他責の促進について書きたいと思います。

子どもたちの関する様々な課題や問題の原因や責任を、「子どもの認知機能」に負わせてしまうことは、大人側が自らの対応を省みて自分のやり方を試行錯誤する機会を奪うことにつながります。つまり、大人側は変化も、成長も、学習もしなくていいと免責されてしまうということです。

しかしながら、大人側の対応のまずさがそもそも最大の原因であるような課題、問題状況も少なくありません。そういった状況なのに、自分の対応を変えずに子どもにトレーニングを強いることを解決策とするのは、本来絶対に起きてはならない事態だと私は思っています。

支援者、教育者側の学びという意味でもう一つお伝えしたい重要な視点があります。

それは、「子どもの認知機能をトレーニングする」することを、教育や対人支援の現場で導入したいなら、最低限の認知科学や神経科学のリテラシー(基礎知識)を身につける必要があるという厳然たる事実です。

例えば、「見る力」という単一の能力は存在しません。

見るという行為は、たくさんの能力の複合的な作用によって支えられています。少しだけ具体的にご紹介すると、高次な視覚情報処理において「顔を見て(それが誰かを)識別する」「風景を見て(そこがどこかを)識別する」「顔を見て(どんな表情かを)識別する」は全て異なるメカニズムだと考えられます。(もう少し正確にいうと、それぞれの処理に特化した別の脳領域の存在がわかっています)

認知機能をトレーニングする、と言うからには、人の認知のメカニズムがどのようなものなのかを最低限でも知っておく必要があるはずです。例えば、視覚情報処理のメカニズムは、神経科学的にも認知科学的にも研究知見が進んでいる領域であり、その気になれば学べる良書、テキストがたくさんあります。その他の認知機能についても同じです。その努力すらする気がないのに「子どもたちの認知機能をトレーニングする」なんて取り組みをするべきではないと思うのです。

まずは、支援者、教育者側が学びましょう。子どもたちのためにアップデートしてきましょう!

参考に、おすすめの良書を貼っておきますね

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