こんにちは。
ニューロダイバーシティについて、続きを書きたいと思います。前回はこの言葉の意味や歴史など基本的な内容について書きました。今回は「文化」という視点について書きたいと思います。
私はよく、「異脳が生み出す異文化」という言葉を使って自閉症スペクトラムやADHDを取り巻く諸問題について説明します。
文化という言葉は、ニューロダイバーシティを語る上でとても大切な言葉だと私は考えています。
「障害」と「文化」
前回の記事にも書きましたが、アメリカのニューロダイバーシティ運動では「自閉症文化」という言葉が好んで使われたようです。それは自閉症と呼ばれる現象を「何かが劣っている、欠けている状態」ではなく、独自の文化を持った文化的少数者であると位置づける発想の転換です。
ここで注意して頂きたいのはこの「文化」という言葉です。この言葉は障害と呼ばれる現象をなんとか肯定的に捉えるために比喩表現として使われているわけではありません。文字通り、字義通りに「独自の文化」を持つ人たちという意味で使用されています。そもそも自閉スペクトラム者の人たちは字義通りのコミュニケーションを好む人たちでもありますから、当たり前といえば当たり前の話ではありますけれど。
そして実は「障害」と「文化」を結びつけて語るのは自閉スペクトラム者が最初ではありません。先輩がいるのです。それは聴覚障害の人たち、つまりろう者の方たちです。幸いなことに私は、このろう文化というものに自閉スペクトラム文化に触れる以前に触れ、また知識としてろう者の社会運動の歴史を知っていました。
大学生の時に手話サークルに属していた私は、手話を学ぶ過程できこえない友人やCODA(ろう家族に生まれた聴者)の友人に恵まれました。そこでいろいろな体験やコミュニケーションをする機会があったのです。
それは私にとってとても幸運なことで、自閉スペクトラムと呼ばれる現象を「文化」という視点で理解することをとてもスムーズに違和感なく出来た背景要因になったように思います。
聞こえの「障害」と「ろう文化」
「ろう文化宣言」という言葉があります。
これはろう者を「聞こえない劣った存在」という視点から、「日本手話という言語を母語とする言語的少数者」であると捉え直そうとする視点です。そしてろう者にはろう者の独自の感性や価値観に基づく文化があるという主張だと私は理解しています。
現代思想という雑誌でろう文化の特集が組まれたのが1996年のことです。ニューロダイバーシティの社会運動が2000年前後くらいからですので、やはり少し先輩ということになろうかと思います。
さて、このろう文化、実は言語的少数者ということにとどまらず、手話という言語だからこその「独自の文化」と呼べるような特徴があると私は思っています。私が知っている限りでいくつかご紹介すると、例えば日本手話にはあまり敬語という概念がありません。それででしょうか、彼(彼女)らは基本的にとてもフランクな対人関係を好むことが多いように思います。また、基本的に手話ネームというその人の特徴を表現したあだ名のようなものを好んで使います。なので、かなり長く親しくしていても本名を知らないということもあったりします笑。聴者の文化ではまずありえませんよね。ちなみに私の手話ネームは「兵士」+「男」で隊長と呼ばれていました。なぜ隊長かは秘密です笑。
このようにろう者には、手話が母語であるということだけではない、文字通りの文化が存在しています。そしてその文化や、ろう者であるというアイデンティティを、とても大事にされ愛されている方が多くおられます。
このことは、本来の根本的な構造としては、自閉スペクトラム者も同じことが言えるのではないかと私は思っています。
「文化」と「アイデンティティ」
ただやはり、違っている部分はあります。それはろう者における「手話」のような分かりやすいアイコンが自閉スペクトラム者には存在しないということです。自閉スペクトラム者と神経学的多数派の方では言葉の使い方の癖のようなものに違いはあるかと思いますが、根本的には同じ日本語を母語としています。
その為、自閉スペクトラム者の文化はより目に見えにくい、ものごとの捉え方や感じ方、価値観という側面に現れてくるのだと思います。その為、やっぱり分かりにくく伝わりにくい側面があります。
また、もう一つの違いはろう者における聴力のような明確な数値が自閉スペクトラム者には存在していないことです。何かの数値でその人がどれくらい典型的な自閉スペクトラム特性を持つ人であるかを測ることは現状では不可能です。(そして私は、その必要もないように思っています。)
両者に共通しているのは、その人が生きていく上でのアイデンティティと個人の尊厳に関わる事象であるということかと思います。
ろう文化について誤解のないように追加で説明させて頂きますが、ろう者であるというアイデンティティとその人の聴力の程度は実は別問題です。聴者とろう者の間に難聴者というアイデンティティが存在するのですが、これらはその人の聴力の程度によって規定されるのではなく「その人自身」が自分をどの文化に属する者と定義するのかの問題なのです。
なので、聴力的には中程度の聴力でろう者を自認する人も、逆に全く聞こえていなくても難聴者を自認する人にも私は出会ったことがあります。もっと言えば、聴者で「私は手話やろう文化のほうが馴染むし心地よい」という人もいらっしゃいます。
この点においては、実は自閉スペクトラム者についても同じ構造なのだと私は思っています。人類全体で見れば自閉スペクトラムはスペクトラムな現象であり、自閉スペクトラム者と神経学的多数派との間に明確な線を引くことは困難です。しかしながら、個人としてのアイデンティティとして自己を「自閉スペクトラム者」であると位置づけるかどうかは個人の自由であり、尊重されるべき価値観の問題なのだと思います。
また長くなりましたので今回はこの辺で終わりたいと思います。次回は、diversity cultivation(多様性の文化化)という私の造語を用いつつ、もう少し具体的なことをお話出来たらなあと考えています。
では!