『「多様性の尊重」というスローガンは捨てた方が良い件』について真剣に考えた(アンサーブログ)

ニューロダイバーシティ

先日、こちらの記事を読む機会がありました。

「多様性の尊重」というスローガンは捨てた方が良い件|弁護士ほり|note
やたらと使われる「多様性の尊重」 現在、「多様性の尊重」というスローガンは、政府の文書から個人の会話まで、至るところで目につくようになっています。経済、雇用、福祉、教育その他、あらゆる分野で「多様性の尊重」という言葉が使われるようになりました。 これについて今回の記事では、この「多様性の尊重」というスローガン自体...

ニューロダイバーシティやラーニングダイバーシティなど、多様性(ダイバーシティ)尊重に関わるテーマを発信することが多い私には、とても大切なテーマです。こちらの記事にリスペクトを込めて、いわゆるアンサーブログという形で私なりの考えを整理してみたいと思います。

その為、本記事をお読みになる前に上記記事を読んで頂けますとありがたいです。

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記事へのリスペクトを込めて

まず最初に書いておきたいのは、私はこの記事で先の記事への「反論」や「否定」をしたいわけではなりません。とても丁寧に論を進めておられ、頷くところも考えさせられることも多かったです。つまり、記事の論旨には概ね同意しています。しかしながら、やはり気になる点や捕捉したい気持ちも生まれてきたのも事実です。この記事ではそうやって触発され考えたことや、多様性尊重の「これから」について思うところを書きたいと思っています。

まずは記事に強く賛同したところから書きます。

最も賛同したいのは、

「多様性の尊重」というスローガンにとらわれすぎると、人間の権利や自由という本質部分をいつの間にか忘れて、単なる「状態」「性質」を尊重すれば良いかのような、本末転倒で人間不在の発想になってしまう危険があるのです。

という部分です。

記事でも指摘されている通り多様性とは1つの状態であり、その「多様である」という状態を絶対視し「いついかなる場面でも多様でなければならない」「多様であること自体に(絶対的な)価値がある」という安易な発想に至ってしまった時点で、多様性尊重は本来の趣旨や目的を忘れた「歪なスローガン」になってしまうと私も思います。

そうなってしまうと、どれだけ人を傷つけるような残虐で非道な行為であったとして「これも1つの多様性だ尊重しろ」という論理がまかり通ってしまうことになります。これは本来的な多様性尊重の精神とは真逆の方向であり、それを認めてしまうことはあってはならないと私も思います。

多様性尊重は「目的」ではなく「手段」

その意味で、多様性尊重というのは「目的」ではなく「手段」なのだと思います。

多様性は文脈を無視して常に絶対的に正しい「目指すべき姿」なのではなく、なんらかの「目的」を達成するために、必要な考え方であったり効果的な方法論であったりするということなのです。

勘のいい読者のみなさまはお気づきかもしれません。そうなってくると大切なのは、何の目的のために「多様性」を語っているのかということなのです。先の記事の文脈で言うと、「個人の尊重」ということになろうかと思います。私も個人的には、その文脈で多様性尊重を語ることが多いので、「個人の尊重」を目的とした「多様性尊重」については今後も大いに語っていきたいですし、社会的な議論がもっともっと高まっていくことを望んでいます。

ただ、今世界的に語られる「多様性尊重(ダイバーシティ運動)」には別の目的、別の文脈で語られているものが含まれていることも見逃せない事実のように思います。例えば企業における「ダイバーシティ推進」という文脈においては主な目的は「生産性の向上」であったり、「企業競争力の強化」という側面が強いかと思います。もちろんそこに「個人の尊重」という側面が全くないというわけではないとは思いますが、中心テーマにはならないのではないかと思います。

つまり今、社会で語られている「多様性の尊重」は様々な目的、文脈のものがごちゃまぜに語られてしまっていることが多く、そのあたりを意識しておられる方もまだ少ないのではないかと思うのです。それらはたまたま方法論が「多様性の尊重」と表現できるというだけのことで、本来的には別の文脈として整理し、それぞれに議論や精緻化を進めていかなければならない事柄だと思います。

話を「個人の尊重」の方法論としての「多様性の尊重」に戻します。なぜ「多様性の尊重」がこんなにも声高らかに叫ばれるのか。その理由が大切です。

それは「多様性の尊重」という方法論を抜きにして「一人一人が尊重される社会」を実現することがとても困難なことだからなのだと、私は思っています。目的ではなくあくまで方法論ですが、とても重要で避けては通れない考え方や視点という意味です。

多様性は「すでにそこにある」ことが前提

なぜそう言えるのか

それは、厳然たる事実として人というものは元々とても多様な存在だからです。そもそも間違えてはいけないのは「個人の尊重」という文脈における「多様性尊重」というものは、「多様でないものを多様にしよう」という話ではなく、「すでにそこある多様性を認め、尊重し、活かしあおうよ」という話なのです。人は多様であるべきだから、今よりもっと多様な状態になれるように社会としてサポートしようなんて話ではありません。多様性は「すでにそこにある」のです。

人の多様性を尊重するということは、言い方を変えると人それぞれの「違い」を正しく理解し尊重しようとすることです。もしこの「違い」が存在しないか、もしくは無視できるくらいに小さければ「多様性尊重」という発想抜きに「個人を尊重」する社会を実現することが可能かもしれません。

けれども事実、人という存在は多様で、人と人の間にはたくさんの「違い」が存在しています。だから、「人の多様さ」理解し、尊重しようとすることなしに「個人を尊重」することなど不可能に近いのだと思います。その意味で、権利擁護運動としてのダイバーシティ運動というものの根底にある原動力は「そこにすでにある「違い」をないものにするな!」という怒りや悲しみなのだと思います。

例えば、ニューロダイバーシティ(脳や神経由来の多様性尊重)という発想は、自閉スペクトラムの当事者の方たちが感じた「自分たちの脳や神経のあり方について「正常、異常」「障害、病理」という視点抜きに、人のあり方の多様性として向き合って欲しい」という切なる願いが出発点であり原動力だと私は理解しています。

その他のダイバーシティ運動について私はここで語れるほどに詳しくはありませんが、人権擁護のためのあらゆる多様性尊重運動の裏側には同様の構図が存在しているのではないかと思います。

多様性尊重のこれから

さて、ここからは多様性尊重の「これから」について考えていきたいと思います。

多様性尊重という発想が、何らかの目的のための手段だとした場合、当然手段には「質の高い(効果的な)方法」と「質の低い(効果的でない)方法」が存在するということになるかと思います。料理をするのに、穴の開いた鍋や切れない包丁を用いていもうまくいかないのと一緒です。

そう考えると、多様性尊重はただただ「多様性を尊重しろ!」とスローガンのように声を上げて叫ぶのではなく、次の段階へ進む必要があるように思います。つまり、「多様性を尊重するために必要なことは何か?」「よりよい多様性尊重のために何が出来るのか」というようなことを、社会全体として考え向き合っていかないといけない時代に差し掛かってきているように思います。そうでないと、多様性尊重は絵に描いた餅、単なるお題目に過ぎないままとなってしまうでしょう。

ではどうすればいいのか。

個人の尊重を目的とした多様性尊重の基本は、人と人の間にある「違い」を認め尊重することだと先ほど書きました。逆に言うとそれは、多様性が尊重されない社会とはその「違い」を認めず、画一的なあり方をよしとする社会と言えるかと思います。私に言わせるとそれは、「人としてのあるべき姿の強要」であったり、「違いが存在することが「問題」であり「欠損」であるという視点」だったりがより強化される社会であると思います。

そう考えると人と人の間に存在する「違い」の理解こそが、多様性尊重が個人個人の尊重につながるための鍵であると私は思っています。何を当たり前のことをと思われるかもしれません。ですがどうでしょうか?これまで個人と個人の違いについて私たちどこまで真剣に向き合ってきたでしょうか?分かりやすいステレオタイプに人を当てこむことをよしとせず、一人一人の違いについてどれほどきちんと理解しようとしてきたでしょうか?このことは(私自身への自戒の念を強く込めたうえで)、これらかを生きるすべての人が向き合うべきテーマなのではないかと思っています。

「何がどう違うのか?」に答えてゆく重要性

その為には、「多様だ、多様だと言うけど、じゃあ具体的に何がどう違うの?」という素朴な問いに答えていくことが大切なのだと思っています。特定のテーマや目的に紐づかず「違い」の中身を説明しない、漠然とした「多様性を尊重しよう!」というスローガンはもういらないのだと思います。どんな目的のために、どこにあるどんな違いの存在を理解して認めていくことが必要なのか、これからの多様性尊重はその水準で議論されていく必要があるのです。「何がどう違うのか?」に答えられない多様性尊重は非常に精度の低い方法に留まっているように思うのです。

そして「何がどう違うのか?」に真摯に答えようとすることは、違いを尊重し「ではどうればいいのか?」を考え実行していくための必須の土台であり、原点だと私は思っています。この「違い」たちは、国籍や所得水準、宗教など個人の外側にあるものから、性的志向性や認知特性、知的能力の発達水準などの個人の内側に存在する特性まで、様々なものが存在しています。どれももちろん重要な「違い」たちですが、私が個人的にとても大切に思っているは目に見えない個人の内側に存在する「違い」を理解し、尊重しようとする視点です。そしてそれはきっと私だけが思っているというようなレベルの話ではなく、人口減少局面に向かうこれからの社会における社会課題として重視されるべき視点なのではないかとも思っています。

以上、やや長くなってしまいましたが『「多様性の尊重」というスローガンは捨てた方が良い件』についての私なりの考えを書かせて頂きました。少し観念的な話だったかなとも思いますが、私の考えや思いについて書かせて頂きました。とても大切なテーマだと思っていますので、感想などをこちらのコメント欄、もしくはTwitterでリプライ頂けますとうれしいです。

では!

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