「コグトレ」記事への批判的考察

心理士パパの子育て、教育、対人支援もろもろ雑記帳

こんにちは。

今まであまり批判的な記事を書くことはなかったのですが、先日公開されたコグトレ(認知機能トレーニングについての愛称みたいなものです)記事の内容が「いくらなんでも…」という内容だったので、批判的な論考記事を書きたいと思います。

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論考対象記事について

今回、考えたいのはPRESIDENT Onlineに掲載されたこちらの記事です。

「勉強が苦手な子」でも遊び感覚で続けられる…教育界で話題沸騰の教材「コグトレ」とは何か もともとは非行少年向けに作られた
「コグトレ」というプログラムが教育関係者に注目されている。もともとは、少年院の非行少年たちの認知機能向上のために作られたものだ。なぜ少年院以外の教育現場でも話題なのか。考案者で立命館大学産業社会学部の宮口幸治教授が解説する——。

本記事の趣旨は『「コグトレ」というプログラムが教育関係者に注目されている。もともとは、少年院の非行少年たちの認知機能向上のために作られたものだ。なぜ少年院以外の教育現場でも話題なのか。考案者で立命館大学産業社会学部の宮口幸治教授が解説する』記事だそうです。つまりインタビューをライターさんがまとめたものではなく、ご本人が書かれている文章なのだと理解しました。

コグトレとは何かなどの基本的な内容は、こちらの記事内に記載がありますのでぜひ対象記事をご一読の上、続きをお読み頂ければと思います。(コグトレについてはよく知っているよ、という方はそのまま本記事を読み進めて頂ければと思います。)

コグトレ全般に関する論考をするとかなり広範囲な議論となり過ぎますので、今回はあくまでこちらの記事に書かれている内容に絞って私の思うところをまとめさせて頂こうと思います。

ちなみに関連する記事を以前に書いていますので、ご興味のある方はぜひこちらもご参照ください。

論理破綻を隠さなくなった「コグトレ」

言いたいことはいろいろあるのですが、本記事において最も問題を感じるのは「コグトレ」の存在意義や目的に関する論理破綻を隠さなくなってしまい、言葉を選ばずに言うならば「開き直り」とでも言えるような筋の通らないご主張をなさっている点に集約されるかと思います。実は以前より、コグトレについては「認知」という言葉の曖昧な使用や、効果に関する科学的なエビデンスの乏しさについての様々な批判がありました。本記事は、それらの批判や疑問に答える集大成記事という位置づけなのだと思うのですが、疑問が解消されるどころかさらに問題を露呈する結果になってしまっているように思います。

ここからは具体的に記事内の記述を引用しながら考察していきたいと思います。

引用①:私は、コグトレには“効果”という考え方はそもそもそぐわないものと考えている。また、コグトレはIQを上げるトレーニングだと誤解されている方もいるが、むしろ九九や漢字を覚えるといった学習に近い。(中略)「九九を覚えるエビデンスは?」と問いかけるのが筋違いなのと同様に、コグトレについても、「写す」力が弱いから写す練習をする、「数える」力が弱いから集中して数える練習をする。その結果、黒板を写せるようになる、数え間違いをしなくなる。それがコグトレの目的であり、それ以上でも以下でもない。

引用②:コグトレは、ただ学習そのものではなく、学習の土台となる見る力や聞く力、想像する力、集中力といった認知機能を鍛えることを目的としている。

同一人物が、同一記事内でしかも並びの段落で記述しているとは信じがたいくらいに矛盾することを仰っておられると私には感じられます。

引用①で、コグトレは「漢字を覚える」「九九を覚える」といったような『技能の習得』を目的としたものだということを明確に主張しておられます。コグトレに関して具体的に言うならば、記事にも例としてあげられているような「記号さがし」や「形さがし」などのプリントが上手に出来るようになることが「それ以上でもそれ以下でもない目的」だと断言されておられていると私は理解しました。

ただしここですでに一つ大きな疑問が発生します。 「記号さがし」や「形さがし」などのプリントが上手に出来るようになることで、本当に子どもたちは「黒板を写せるようになる、数え間違いをしなくなる」のかという当然の疑問です。そして本記事ではこの疑問に全く答えてくれていません。なぜなら根拠として示されているデータが、「プリントがうまくなった」というデータだけだからです。黒板を写せるようになる、数え間違いをしなくなることが目的と断言されるのならば、「書き写しが苦手な子どもが出来るようなった」「数え間違いのケアレスミスが多かった子どもがミスをしなくなった」というデータが求められるのは自明の理なのではないでしょうか。(私個人の実感としては、認知トレーニングプリントを反復練習しただけで、書き写しが出来るようになったりや数え間違いのミスがなくなっていくのなら、そんなありがたい話はないと思う反面、みんながそれで出来るなら誰も苦労しないよとネガティブな気持ちも抱えています。)

この時点で疑問符がつくご主張ですが、次の大矛盾に比べると些細なことなのかもしれません。

なぜならば、その直後の段落で「 学習そのものではなく、学習の土台となる見る力や聞く力、想像する力、集中力といった認知機能を鍛えることを目的としている」 と主張されているからです。これは先ほどまでの主張をご自身でひっくり返す驚きの主張だと思います。「九九や漢字を覚えるといった学習に近い」と言った直後に、「学習そのものではなく認知機能を鍛える」と言われているのです。認知について専門知識をお持ちでない方であったとしても、日本語の理解レベルで「どっちなの?」と混乱してしまうような矛盾ではないでしょうか。

引用①で書かれたことが目的だと主張されるなら、認知機能を向上させるという引用②の効能は取り下げないと論理破綻をしてしまいます。野球の素振りを繰り返して素振りがうまくなることが「運動神経を鍛えている」「運動機能向上のためのトレーニング」にならないのと同じことです。

認知機能という言葉の便利使い

この矛盾の背景には、一言で言うと「認知機能という言葉の便利使い」が存在しているように私は考えています。そしてこの便利使いは、対象となる子どもたちに利益にはならず、弊害が大きくなる可能性が高いので即刻やめるべきだとも思います。

引用①の通りに学習そのもの、つまり特定のプリントを練習してそのプリントがうまくなることが、コグトレの価値だとするならば、「そのプリントうまくなって何の役に立つの?意味あるの?」という疑問が発生します。プリント学習なので、反復して練習すれば当然「そのプリントがうまくなる」ことは起きます。少なくともたくさんの子どもに実施して平均値を取れば必ず向上すると考えられます。でも、「記号探し」や「形探し」のプリントがうまくなることに何の意味があるのでしょうか?漢字や九九ならば日常生活で使いますし、その後の学習でも直接的に必要となる知識や技能です。けれど、これらのプリントを日常で活用することなど皆無に等しいでしょう。コグトレを学習そのものとして、漢字や九九と並列に語ることには相当な無理があると私は思います。

そして、引用②のように「認知機能を鍛えている」と主張されるのならば、学術的にきっちりと定義され国際的にも様々な論文が書かれている「認知機能」について、トレーニング”効果”に関するデータを集め、査読付き論文でもって堂々と持論を主張される必要があるでしょう。なぜなら例えば、視覚機能を多少なりとも用いるプリントがうまくなったという事実をもって「みる力(視覚的認知機能)が向上した」とならないのは明らかだからです。その理屈が通るならもっと複雑な視覚情報を処理するテレビゲームをしたほうが認知機能が向上することになってしまいます。コグトレが認知機能を鍛えると定義される限り「コグトレには“効果”という考え方はそもそもそぐわない」という主張は通るものではないと私は考える次第です。

気がつくと長くなってしまいました。けれど、認知機能という言葉の便利使いによって子どもたちにどんな弊害が起こり得るのかについてまだ書けていません。そこが一番大切な話なので、そちらは次回に続編として改めて書きたいと思います。

今回はこのへんで。

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