こんにちは。
今回は以前にtwitterでつぶやいたこんなつぶやきを元に、自閉スペクトラム者と神経学的な多数派の言葉の使い方の文化の違いについて書きたいと思います。私はこのことをASD語用論という言葉で普段表現しています。
「2時までにお部屋のお片づけ出来る?」
— 村中直人 (@naoto_muranaka) May 5, 2019
「出来るよ」
「じゃあ、よろしくね」
「??(何をよろしく?)」
2時が過ぎる
「お部屋のお片づけ全然してないじゃないの!!」
「????(なぜ怒られてるの?)」
「片付けするって言ったじゃない!」
「そんなこと言ってない!!」
以下続き
「なんでそんな嘘つくの?」
「嘘なんてついてないよ!なんでそんな酷いこと言うの?」
「だって2時までに片付けするって言ったじゃない!」
「だからそんなこと言ってないって!なんでそんな嘘言うの?」
「嘘ついてるのはそっちでしょ!」
「そっちってなんだよ!意味わかんない!」
「意味わかんないって何よ!なんで素直に認められないの?」
「だからそっちって何!?なんで答えてくれないの?」
「嘘ついてるのはこっちじゃなくてそっちでしょ。何度も言わせないでよ」
「意味わかんない!ほんと意味わかんない!」
「なんでそんなに意地っ張りなのよ!」
「答えてよ… 泣」
この会話は私が下記の本を読んでいる時に、この本の主人公である女の子とその母親の間で起きていそうな会話を想像して作った創作会話です。
この本は、グニラ・ガーランドさんという自閉スペクラム(ASD)当事者の女性が書かれた自叙伝です。自閉スペクトラム女性の自叙伝と言うとドナ・ウィリアムズさんやテンプル・グランディンさんのものが有名ですが、この本も素晴らしい名著だと思います。詳しくは下記記事をご参照くださいませ。
文脈重視と定義重視のすれ違い
先程の一連の会話を読まれてどのように感じられましたでしょうか?どこで何がどのようにすれ違っているのかおわかりになりましたでしょうか?
最も大きな要因としては、「文脈的意味」と「定義的意味」のどちらを重視しているのかというコミュニケーションの前提レベルのすれ違いをイメージして私はこの会話を考えました。
すれ違いは会話の一番最初の「2時までに片付け出来る?」「出来るよ」というやり取りの時点ですでに生まれています。母親は「2時までに片付けしておいてね」という意図で、「片付けできる?」と質問しています。それに対して娘は字義通りの意味、つまり「能力的に出来るか出来ないか」という意味で「出来るよ」と答えたわけです。
母親としては「2時までに片付けをする」という要求に対して娘からYESと答えが帰ってきたと認識しています。もしかしたら自分が「片付けできる?」という疑問文で呼びかけたことすら覚えておらず「片付けしておいてね」と言ったと記憶しているかもしれません。それも無理はありません。文脈で考えるならそれらはほぼ同一の意味内容と捉えられるからです。
しかしながら娘はそうではありません。出来るか出来ないかの質問を受けたという認識はあるでしょうけれど、それが「要求」であるとは夢にも思っていないわけです。言葉の定義的意味を重視する視点からするとそれもまた当然のことではあります。
つまりこの親子は同じ日本語を話してはいますが、言葉のやり取りをする上での基本ルールのようなものが異なっていて、やり取りのすれ違いが生まれているのです。
無意識の前提ほど気づきにくい
こうやって構造がわかると何がどうすれ違っているのかが明確になるのですが、当の本人たちにとって何がどうすれ違っているのかを認識するのは容易なことではありません。というよりもすれ違っているという認識を持つこと自体が難しいように思います。それはお互いに無意識レベルで起こっているコミュニケーションの前提が原因となるすれ違いだからです。
すれ違っているという認識が持てないと、本来起こっていることと違う誤った認識が生まれてしまいます。母親目線では娘が「嘘をついている」とか「言い訳をしている」というふうにしか思えないわけです。母親の認識では確かに「依頼」し、娘からOKをもらったとしか思えていないわけですので、それもまた仕方のないことです。
娘の視点からすると、母親は「言っていないことを言ったと主張した」というふうにしか見えません。自分の記憶の中では「依頼」された事実はないわけで、「片付けると言った」と言われても「言っていない」以外の答えはないわけです。
問題は誤解したまま相手を評価すること
こういったすれ違いで大きな問題となるのは、こういった構造に気づかないままにすれ違い続けることで、誤った認識をもとにお互いがお互いをネガティブに評価してしまうことだと私は思っています。つまりすれ違いそのものよりも、すれ違うことで相手のことを「ダメな人だ」とか「信頼できない人」だとかという認識を持ってしまうことのほうが重要なことかと思います。
今回の会話で言うと、母親は娘の言動を「片付けると約束した」上で何らかの理由で片付けをせず、それを指摘されたときに「片付ける約束をしていない」と言い訳をしているようにしか思えていません。こういった認識から考えると「自分の非を認めることが出来ない人」とか「自分に都合の悪いことはなかったことにする人」というような評価を娘に対して感じてしまうかもれません。そしてそれは親の立場で言うならばとても心配なことでしょう。しかしながらそれは誤った認識の上での心配事なので、不要な心配ということになってしまいます。
そして娘の視点から見ると、母親は突然「片付ける約束をした」と主張し始めた人なので「誤った記憶を押し付ける人」か「言いがかりをつける人」というような認識を母親に対して感じてしまうかもれません。もちろんこちらも誤った認識による不正確な評価です。
こういったことが続いてしまうと、親子関係が非常に険悪になり関係性維持が難しくなることは容易に想像できることだと思います。
自閉スペクトラム者と神経学的多数派の人のコミュニケーション上の齟齬が起きやすいのはこういった、前提となるコミュニケーションルールや感覚のズレが意識されることなく、相互の誤解を生み続けるという場合が少なくないように思っています。ここを乗り越えるためには、文脈重視と定義重視というようなお互いにとって当たり前レベルの前提について互いに理解し合うことが大事なのだと思います。
最も良くないのは、自分の感覚を「それが正しい方法だ」として相手に押し付けようとすることです。それは関係性を良くすることも、より生産的なコミュニケーションを生み出すこともない、とてもつらい状況を生み出してしまうやり取りだと思います。
実はこの会話にはもう一つ大きなすれ違いが埋まっているのですが、長くなってしまいましたので今日のところはこのへんで!
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