こんにちは
先日、こんなことをtwitterでつぶやいたら、多くの方に反響頂きました。今回はこのテーマの解説記事を書こうと思います。
障害というものをどう捉えるのかは社会のあり方を考える上でとても大切なテーマだと思っています。
みんなが空を飛べる社会
想像してみてください。
今、世界中のあなた以外の人のほぼ全員が自由に空を飛び回れるようになりました。あなたは何も変わっていません。変わったのは周囲の人たちだけです。
ですがこの瞬間からあなたは「飛行能力完全欠如の重度身体障害者」ということになります。なぜなら、社会の様々な側面が「自由に空を飛べること」を前提に作られていくからです。
例えば建物から階段がなくなります。階段を登るより空を飛んだほうが早いし楽だからです。また部屋の天井や手の届かないとろこも活用したような設計になるでしょう。そのほうが空間を有効に使えます。
そうなると、空を自由に飛べないあなたはとても困ってしまいます。一人では気軽に外出することもままなりません。つまりあなたは、誰かからの特別な支援や配慮を必要とする存在になるわけです。
それは、あなた自身が全く何も変わらなくても「障害者」と呼ばれる存在になるということです。
障害はどこから来るのか?
ここで大切なのは、「空を飛べる人」に社会が最適化されることで「飛行障害」という障害が生まれるであろうという側面です。もし、みんなが空を飛べても今の社会と全く同じであるなら、飛べないことは「障害」にはならないわけです。
こう考えると、障害と今呼ばれているものが単にその人の内側にあることだけではなく、社会の有り様に大きく影響を受けていることをご理解頂けるかと思います。
こういった障害観には「社会モデル」や「生物・心理・社会モデル」などという名前がついていたりするのですが、やや難しい話になりますでここでは専門用語としての解説は割愛させていただきます。興味のある方は調べてみてください。
難しい用語を使わなくても、障害というものが「人の側にある特性や能力」と「社会の有り様や要求」との間、相互作用によって作られている概念であることは理解可能ですし、とても大切な視点だと思います。
価値観やアイデンティティへの影響
再度想像してください。
空を飛べないあなたに、周囲の人たちが次々にこう言うのです。
「あなたは全く努力が足りていない。障害者なんだから人一倍努力をして当然でしょ?」
「あなた全く空を飛べないの?そんな当たり前のことが出来ないなんて人としてどこかおかしいよね。」
「飛べない人に大事な仕事を任せることは出来ません。仮にどれだけ成果を出しても障害者のあなたには昇進も昇給もありません。」
「飛べないあなたが、目標に向けて努力しているところを取材させてください。飛べないあなただって努力すればできることがあるってことを世の中に知らせるための番組にします。」
「飛べないの?かわいそうに。でも大丈夫、私はあなたを差別しませんよ。やさしく接してあげますからね。もう頑張らなくてもいいんです。飛べない人を頑張らせて無理をさせるなんて人権侵害です!」
みなさんは、これらの言葉をどのように受け止められるでしょうか?多くの方が強い違和感や反発心を感じられるのではないかと思います。少なくとも私はきっとそう感じます。
それはなぜか?
それはみなさんの価値観やアイデンティティを、根本のところで否定されている、軽んじられていると感じてしまうからなのではないかと思います。
また、そもそも元々飛べない人として生まれ育ち、その中で当たり前に生きてきたみなさんは、飛べないことを理由として自分のことを「障害者」であると思えるでしょうか?多くの人はそうは思えないのではないかと思います。
「障害」の多い社会と少ない社会
空を飛べる人が大多数な世界においても、空を飛べない人が「障害者」ではない社会にすることは、可能です。だって、今の社会は空を飛べないことは障害ではないですからね。
その理屈で言うなら、今の社会で「障害」とされていることだって、社会の有り様を変えていくことで「障害」ではなくなることは可能だということになります。少なくとも障害と呼ばれている状態を少なくしたり、生きにくさを軽減することが出来ない理由はないはずです。
「障害者」と位置づけられる人が最も少ない社会のあり方ってどんな社会だろう? 社会を構成するひとりひとりの生きにくさや困難や苦痛の総量が最も少なくなる社会って、どうしたら実現できるだろう?
ミクロな視点で、個人個人を深く理解し支援することはとても大切なことです。ですがこういうマクロな視点で社会について考え、自分にできることを探ることもまた、障害というものを理解し向き合っていく上でとても大切なことだと思っています。