【雑誌記事全文公開】 発達障害の子どもたちの「学び」の諸問題

発達障害よもやま雑記帳

こんにちは。村中直人と申します。

大阪の開業医師向けの専門誌である「大阪保険医雑誌」様からご依頼頂き寄稿いたしました記事を、雑誌編集者様の許可を得て全文公開いたします。

8000字超の長文となりますがご一読頂けますと幸いです。

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発達障害の子どもたちの「学び」の諸問題

掲載紙:『大阪保険医雑誌』2018.12 No627 

〇発達障害の子どもたちを取り巻く学びの状況について

2005年に発達障害者支援法が施行、2007年に特別支援教育が開始されて十数年が経過した。発達障害の子どもたちを取り巻く環境について一定の総括をし、今後について改めて考えていかなければならない時期に差し掛かっていよう。

筆者は民間の臨床心理士の立場で、主に発達障害圏の子どもたちの学びを支援する事業(「あすはな先生」)に2008年の立ち上げから携わっており、この10年で700名を超える子どもたちの学びの支援に直接間接を含めて関わってきた。また、発達障害の子どもたちへの支援者の養成(発達障害サポーター’sスクール事業)についても2016年より取り組んでおり、それらの立場から発達障害、特に知的障害を伴わないタイプの子どもたちの「学び」の現状と課題について論じたい。

深刻な「学力獲得の困難」

まず最初に統計データから見ていきたい。2012年に文部科学省が全国の小中学校を対象に行った有名な統計データーがある。通常教室に通う子どもたちの6.5%に発達障害の子どもたちがいると示した調査である。この調査には下位項目が存在し「学習面で著しい困難を示す」子どもたち、つまり広義の学習障害の子どもたちについて全体の4.5%であったと示されている。尚、この調査は知的障害を伴う子どもたちが解析から除外されている。

この数字を単純に計算すると発達障害と考えられている子どもたちの内の69.2%、つまり約7割は「深刻な」学力不振状態にあるということになる。「深刻な」とわざわざ強調したのはこの調査のカットオフ値が高めに設定されており、軽微な学力不振が除外されているためである。つまり、軽微な学力不振までを視座に入れるなら、発達障害の子どもたちの大多数は「勉強が苦手で学力獲得が出来ていない」ということになる。全般的な知的能力の遅れはないのに、である。

全校生徒における4.5%という数字は20数人に1人であり、筆者の立場としてはこれは由々しき社会課題であると考えている。しかしながら発達障害に世間の注目が集まっている割に、この問題に対してはあまり大きな焦点として取り扱われていない印象を受けている。もっと言うと「障害だから仕方がない」「学べないから学習障害なのでは?」というような諦めに近いような認識が優勢であるとすら感じている。この認識が多くの場合誤りであろうということは後に論じるとして、まずは学力不振の子どもたちがどのような状態にあるのかを論じたい。

自尊心への深刻な影響

学童期の子どもたちの学力不振がもたらす深刻な問題として、子どもたちの自尊心の問題をまずは指摘しておきたい。
今の時代、子どもたちは多くの時間を「勉強」して過ごしていることはご周知の通りであろう。そして学力不振の子どもたちにとって勉強の時間は苦痛や傷つきに満ちた時間である。全然分からない授業をただ我慢し聞き続けることも、友人たちよりも低い点数や成績を毎回つきつけられることも、全て子どもたちの自尊心を損なうのに十分な材料となる。

さらに言うと、今論じているのは知的障害を伴わないタイプの子どもたちである。つまり自分が持っている能力よりもはるかに低い成果しか出せていないことを理解し、自覚することが出来る子どもたちである。子どもたちは誰に指摘されることも、非難されることがなくとも「出来ない自分」に苦しみ悩む。

ここで「学力の経済学(著:中室牧子氏)」というベストセラーとなった本から少し引用したい。この本は学力や教育の問題を経済学の視点から論じたことで話題となった本で、その中に学力と自尊心の関係を心理学研究の成果を踏まえて論じた項がある。

P443
「自尊心と学力の関係はあくまで相関関係にすぎず、因果関係は逆である、つまり学力が高いという「原因」が自尊心が高いという「結果」をもたらしているのだ」

自尊心と学力の関係は、学力が原因であるという研究報告はとても重要な示唆を含む。学力で低下した自尊心ならば、学力獲得によって向上する可能性が高いということになるからである。逆に自尊心を高める働きかけだけでは学力も自尊心も伸ばさないことも、種々の研究結果により明らかとなっている。

「学び方を学べていない」

少し視点を変えて別の課題について述べる。それは発達障害の子どもたちの多くが「学び方がわからない」という事実である。

もう少し厳密に言うと「自分に合った学び方を身につける」ことが出来ていない。「勉強しなきゃ」と子ども本人が思ったとしても、何をどうしたらいいのかが分からずすぐに頓挫してしまう。

筆者はこのことを学力が低いことそのもの以上に、子どもたちの後の社会参加に大きな悪影響を与えるのではと危惧している。なぜなら、今や学ぶという行為が子どもたち、若者たち固有の課題である時代ではなくなり、大人になっても学び続けなければいけない時代となっているからである。これは、学ぶことでよりよく生きることが出来るという水準の話ではなく、学ばないと最低限の生活が脅かされるとい意味で学び続けなくてはならない時代である。

近年に話題になっている事だけでも以下のようなことが言われている。

「今後10~20年程度で、アメリカの総雇用者の約47%の仕事が自動化 されるリスクが高い」(マイケル・A・オズボーン氏(オックスフォード大学准教授))
「2011年度にアメリカの小学校に入学した子供たちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」(キャシー・デビッドソン氏(ニューヨーク市立大学教授)の予測)   
※文部科学省 産業競争力会議 雇用・人材・教育WG資料より転載

これらの予想の真偽はおいておいたとしても、これからの社会が今まで以上に変化の大きな時代となっていくことについては疑いの余地はないであろう。

変化が大きな時代とは、「何」を学んでおけばよいかの予測が難しい時代と言い換えることが出来る。知識や技術はすぐに古くなり役に立たなくなってしまう。そんな時代を生き抜いていかなくてはいけない子どもたちは、特定の「知識、技能」を身につけること以上に、「自分がどうやったら効果的に学べるのか」を知り「自分に合った学び方や学ぶことへの意欲」を身につけることの重要性が高まっている時代を生きている。

そして、発達障害の子どもたちは驚くほど初期の段階で「学び方を身につける」ことにつまづいている現状がある。しかしながら筆者は、今までの支援実践の気づきとして学習障害を含む発達障害の子どもたちの多くが、本来は「自分に合った学び方」の習得が可能である考えている。次に学習障害を中心にそのことについて論じたい。



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〇学習障害は「学ぶことが出来ない障害」なのか?

そもそも学習障害とは何か?


学習障害という言葉は、学習の障害という字面の分かりやすさに比して、その内容理解は難解である。例えば文部科学省の定義では以下となっている。

【学習障害定義】
『学習障害とは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を指すものである。学習障害は、その原因として、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されるが、視覚障害、聴覚障害、知的障害、情緒障害などの障害や、環境的な要因が直接の原因となるものではない。』

定義としては明確なように感じられるかもしれないが、現場感覚で言うと迷う要素も少なくない。

例えば、「知的能力のグレーゾーン域で全般的な学力不振がある場合」「読み書き計算の基本スキル(小学校低学年レベル)は身についているがその先に困難がある場合」「眼球運動困難など中枢神経系以外の要因が学力不振の1要因として強く関与している場合」などはこれらを学習障害と呼べるのかなど、扱いが難しい部分を含んでいる。これは「学ぶ」という行為が、多数のスキルの集合体であるところにその要因があると考えられる。もっと言うと、たくさんの神経系の働きの複雑な相互作用の上で、「学ぶ」という行為は成立しており、困難を1つの要因に帰結することが難しいということを意味している。

「学ぶ」の神経・認知的理解


例えば「読む」という行為1つに関しても、大脳生理学的観点からは視覚処理と聴覚(音韻、単語、分脈)処理過程の両方が関与している(学習障害の大脳生理学 脳と発達1999:31;249-256)ことが知られており、また別の観点からはワーキングメモリーや注意機能などの認知機能、眼球運動などの筋機能など様々な側面の影響が考えられている。その為「読めない」という状態一つでも、その原因は(学習障害の定義の範囲内のものに限定しても)子どもたち一人一人によってかなり多種多様である。そこに意欲や学習環境、これまでの経験の問題などの他要因が絡んでくるので、問題は益々複雑となる。

つまり、今「学習障害」と一括りにされている子どもたちの「出来ない理由」は「人によってかなり異なっている」のである。

このことは、学び方の工夫により学ぶことが促進される場合が相当あるということの根拠になると筆者は考えている。出来ない理由が人によって違うなら、その出来ない理由をアセスメントして苦手を回避する学習法を考案したり、苦手な部分に効果的なトレーニングを行うことにより、出来ないが出来るに変わる余地は残されている。筆者個人の経験でも、適切なアセスメントにより学びの方法の工夫を提供できた場合、学習障害の定義で説明されるような「読む、書く、計算する」などの基本スキルの獲得が出来ない状態にずっと留まる事例にはほとんど出会わないということを付け加えておく。

一つ具体例を挙げて説明する。我が国の一般的な学習環境において漢字や英単語などを覚えるための方法は「書いて覚える」という方法にかなり偏っている。多くの人が漢字を書いて覚えてきたであろう。しかしながら一部の子どもたちは神経系の働きにより「動作の自動化」が極端に起きにくい場合があり、こういった子どもたちにとって「書いて覚える」方法では覚えることが困難で、同時にかなりの苦痛を伴う。結果としてこのお子さんはほとんど漢字が「覚えられていない」し「書くことが出来ない」という状態になる。

ではこのお子さんは「書字障害」で「記憶力に問題のある」お子さんであり、「学習障害」なので漢字を書けるようになることを諦めるべきなのであろうか?答えは断じて「否」である。少なくともこの段階においてそう決めつけることはあまりにも性急であり妥当性を欠く。なぜなら、このお子さんが漢字を覚え、書けるようになるための方法論が「たくさん書いて覚える」方法しか試されていないからである。

こういった場合、課題を分割する「スモールステップ」という考え方が基本となる。この場合、「覚えること」と「書けること」は少なくとも分けて考えなくてはいけない。このお子さんがもし、視覚情報の活用など書く以外の発想で漢字が覚え易い方法が見つかったとすると、漢字を覚えることの困難はほとんどないことになる。実は「覚えていないから書けなかった」だけで、覚えたら書けるようになったというケースも少なくない。覚えている漢字でもうまく書くことが出来ない場合、書字の困難の要因をさらに探り、出来る方法はないのかを考えることになる。

このように、一つ一つの「出来ない」に対し背景要因を丁寧にアセスメントすることで「出来る」を増やすことは可能な部分が多く、少なくともそれらをしっかりと検討し提供することは教育において重要な「合理的配慮」であると筆者は考えている。誤解のないように付け加えておくと、どんなに配慮や工夫をしたとしても「読む、書く、計算する」などの基本スキルの獲得の難しい、狭義の学習障害に該当する人は存在すると筆者も考えているし、その場合の代償的な配慮を否定する気は全くない。しかしながら、そういった特性を持つ人は非常に少数であり、広義の学習障害に該当する人の多くは配慮や工夫により出来るようになる可能性を十分に持つ人たちであると筆者は考えている。

子どもたちの「学び」とって大切なのは、個々に合った学び方を見つけ子どもたち自身が「学び方を学ぶ」ことであろう。学童期、思春期に学び方をしっかり学ぶことで、生涯にわたる学びの基礎力を身につけることになる。しかしながら、現状の教育環境においてこういった配慮や支援がなされているかというと、十分とは言いにくい現状がある。



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〇両極端な「間のない」方法論


我が国の一般的な教育環境において、それは学校でも塾でも、「何を学ぶか」だけでなく「どのように学ぶか」までが決められていることが圧倒的に多い。先述の通り漢字は書いて覚えるものだし、九九は口ずさんで覚えるものだとされている。現状これらの方法論で難しい場合に他の方法が提供されることは少なく、たくさん頑張るという量でカバーすることが推奨されることが多い。そして量でカバーできない場合は、「出来ない子」や「頑張れない子」というスティグマが張られていく。

これらのことから、我が国の教育において「どんなやり方にも対応出来て、だいたい何でもそつなくできるジェネラリスト体質」が評価される傾向があるのではないかと筆者は感じている。発達障害の子どもたちはその対極となる「スペシャリスト体質」であることが多く、非常に不利な状況にある。

その為、発達障害の子どもたちは全般的な知的能力が劣っていなくても通常の教育環境から簡単に弾き出されてしまう傾向がある。その先に準備されているのが特別支援教育である。現状で言うと、知的障害がない場合は特別支援学校ではなく、通常学校内の「支援級」や「通級指導」が選択されることが多い。そこではより個別的な対応を受けることが可能となるが、課題も多い。個々の状況についてはかなり個別性が高い為、ここでは筆者が考える構造的な課題について述べたい。

発達障害児の学びの課題が9歳の壁以前の問題として取り扱われている

まず知的障害を伴わないお子さんの特別支援教育における現状について、筆者の耳に届いている最近の事例を紹介したい。

一言で言うと、特別支援教育になったとたんに子どもたちへの要求水準が低くなり過ぎることがしばしば起きている。具体的には「準備されている教材が小学校低学年レベルのものしかない為、満点のプリントを何回も繰り返している」「学習時間ずっと時計の読み方の練習をしてる(もう読めるのに)」 「明確に間違えている問題があってもテストは常に満点で返す(理由は可哀そうだから)」などがある。これでは明らかに課題の設定レベルが低すぎて、子どもたちの学びや成長が促進される以前の問題であろう。

他にも、医師からの「学習障害の傾向あり」といった診断未満の発言情報のみを根拠に、知的障害を伴わない小学生の親御さんに対して「学習障害なので高校進学は諦めてください」と伝えた事例も聞き及んでいる。筆者に言わせると、ここまでくると子どもの学ぶ権利を剥奪する人権問題であるとすら感じる。

筆者はこれらの状況の構造的な問題は、発達障害児の学びの課題が9歳の壁以前の問題として取り扱われていることにあるのではないかと考えている。

例えばDSM‐5やICD-10における学習障害の診断基準や文部科学省の学習障害定義をどのように読み直しても、そこに「方程式の解法に悩む姿」も、「物語の機微を読み解くことに困難を抱える姿」も浮かび上がってこない。そこに浮かび上がってくるのは、概ね小学校低学年レベルの学力に問題を抱えている子どもたちの姿である。つまり、9歳の壁を超えた先の「学びの課題」は、特別支援教育の範囲外であるかのような扱いがなされているように感じるのだ。その証拠として支援級では、そこに所属する子どもにいわゆる内申点が付かない場合が少なくない。そもそも内申点の評価対象から外れるとされるためである。

加えて言うと、先の文部科学省の調査で学習障害の調査に使用されたのは「LDI-R」を参考に作られた調査票であり、「聞き間違いがある」「音読が遅い」「簡単な計算が暗算出来ない」など、その内容はやはり小学校低学年相当が主に念頭に置かれたものが多い。その為「学習面で著しい困難を示す」子どもたちは学年が上がるごとに割合が下がり、小学校1年生で7.3%だったものが中学校3年生では1.4%にまで下がる。学年が上がるたびに増えるのではなく、「減っている」のである。つまり小学校3、4年生程度の学習能力が獲得出来ていれば、例えそのお子さんが中学3年生で小学校高学年レベルの躓きがあっても「学習障害ではない」とされていることになる。

こういった状況のため、子どもたちや保護者の方たちは究極の2択を迫られる状況が生まれている。学びの方法を指定されその枠の中でなんとか多数派の子どもたちと同じ要求水準に答え続けていく道(通常級)か、個別的対応はしてもらえるが要求水準が極端に下げられる道(特別支援教育)かのどちらかである。もちろんこの問題は個別性が高く、優秀な教員が担当であった場合、後者の問題はかなり軽微になる。しかしながらそれは現状かなり「運試し」の状況に近く、子どもたちや保護者からすると当たり外れが大きいと感じる状況であろう。

ここでは公教育における例で取り上げたが、これは私立学校や発達障害対応を謳う塾や放課後等デイサービスなどの民間機関においても基本的には同様の構造があり、個に合わせた適切な支援が提供できている場合はまだまだ少ないと言わざるを得ないであろう。

不足する支援リソース

しかしながらこういった状況は構造的なものであり、個々の教員や指導員の能力や努力不足というような属人的な原因に帰属すべきではない。公的機関、民間を問わずこういった問題に精通した 支援者、指導者を育成していくような仕組みは乏しく、人的リソースは極端に不足している。

〇求められる「学びの多様性」-要求水準と方法論の両面からー


本稿の最後に発達障害の子どもたちの学びの問題が目指すべき方向性について述べる。それは一言で言うと「学びの多様性の尊重」というところに尽きると筆者は考えている。特に、要求水準と方法論の多様性が重要である。

心理学に「レディネス」や「発達の最近接領域」という言葉がある。詳細は紙面の都合上割愛するが、どちらも学習者に合わせて「要求水準や学びの内容を変える」ことの重要性を指摘する言葉である。

しかしながら現状では、学年つまり生物学的な年齢によって学ぶ内容は画一的に決められてしまっている。そしてそこから外れると「障害児」となり、学力評価の対象外とされてしまうことが多い。例えば教科によって1学年や半学年遅れ(場合によっては1学年上である必要がある場合もあろう)で学ぶことが許容されるような仕組みが今後は必要となるだろう。

また、前述のように学び方についても多くの場合画一的である。そもそもどのような学び方が合っているのかという検討すらなされていない場合も多い。そういった個に合った学び方を考える為には、指導者側に神経科学や認知科学に関する最低限の専門知識がリテラシーとして求められるが、そういった知識やノウハウを学べる場はまだまだ少ない。手前味噌になるが筆者らが「発達障害サポーター’sスクール」を立ち上げたのは1人でも多くの人に専門知識を学ぶ場を提供したいと考えたからであり、僅か数年で受講者は延べ5000名を超えている。学ぶ意欲のある人はたくさんいるのである。

さらに言えば現場の指導者個人の資質向上や研鑽だけでは根本解決にはならないであろう。時代に合わせて現状の教育システムを根本から変えていくことが求められる時代になっているのだと、発達障害の子どもたちに関わることで日々痛感させられている。

最後に、これら「個に合わせた学びの多様性」を尊重できるような教育の場は発達障害の子どもたちだけでなく、「これからの時代を生きるすべての子どもたち」の学びの質を上げていくために重要な発想だと考えている。全員の学びの多様性を尊重できた時、それは発達障害の子どもたちだけを対象とした特別支援教育が不要となる時である。その実現の為に、本稿をご拝読頂いている医師の先生方のご理解とご助力が非常に重要な側方援護となり得ることを記述し、ご協力を願いながら本稿を終えたい。