「自分がされて嫌なことを相手にしない」のアップデートから多様性について考えた

心理士パパの子育て、教育、対人支援もろもろ雑記帳

こんにちは。

先日下記のツイートをしたところ、ちょっと信じられないくらいの大きな反応を頂きました。私の発信の大きなテーマである「多様性が尊重される社会の実現」に明確に結びつく話ですので、ブログにてもう少し詳しく書こうと思います。

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「自分が嫌なことを相手にしない」の大前提

子どもたちに人との関わりを教えようとする時に「自分がされて嫌なことは、人にしてはいけません」ということが言われることがよくあるかと思います。また逆に「自分がされてうれしかったことを、人にしてあげましょう」という形で伝えられることもありますね。これらは表現は真逆ですが、相手にすべきこと(してはいないこと)を自分の感覚を根拠として導き出すという意味で、基本的な発想は同じかと思います。

ツイートでも書いたように、私はそろそろ社会はこの発想から卒業して、発想をアップデートしていかなくてはいけない時期に来ているのではないかと感じています。それはこの言葉自体というより、その背景にある前提の認識を変えていかなくてはいけないと思うからです。

さて、ここにある前提は何でしょうか?

それは、「人が嫌だと思うこと、うれしいと思うことは大体において一致している」という認識です。そうでないと「自分がされて嫌なことは、人にしてはいけません」も「自分がされてうれしかったことを、人にしてあげましょう」も成立しないことになります。ツイートでは、「自分は嫌じゃないからしてもいい」につながる、というのを1つの例として書きました。「自分がされて嫌なことを相手にしてはいけないのなら、自分がされてOKなことなら相手にしてもいいんですよね。」という発想ですね。この発想は、されて嫌なことが人によって全く異ならない場合においてのみ、有効な考え方かと思います。されて嫌なことが異なる場合には、相手が嫌がっているのに「自分が嫌じゃないから」という理由で相手の感情や感覚を否定してしまうことになってしまうからです。

みなさんはどう思われますでしょうか?人はだいたいにおいて嫌だと思うことやうれしいと思うことが同じなのでしょうか?私はそうは思えません。私の専門である脳や神経由来の多様性(ニューロダイバーシティ)という発想を持ち出すまでもなく、嫌だと思うことも、うれしいと思うことも人によって多様だし、そのことに優劣も問題も本来はないはずだと思っています。なので私は続けてこうツイートをしました。

「嫌だ」も「うれしい」も、どんな時にそう感じるのか、どんなことでそう思えるのかは実際問題、事実として人によって異なっています。なので「多様性」はすでにそこにあるのです。そう考えると後の問題は、そこにすでに存在している多様性といかに向き合うのかという話だけなのだと思います。

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最低限すべきこと?、子どもだからそう伝えること?

twitterでたくさんの反響を頂いたものの中に、いくつか気になるものがあったのでその趣旨の部分だけを抽出して私なりの考えを書きたいと思います。

ご意見について

まず反応として多かったのは「自分がされて嫌なことを相手にしない」ということは、最初のステップもしくは最低基準なのでそれはそのままでよいというご意見でした。

具体的に言うと

「「自分がされて嫌なことを相手にしない」は最低限守るべきことであって、そこから相手のことをもっと考えれらえるようになればいい」
「少なくとも「自分がされて嫌なことくらいは相手にしなようにしよう」という心構え」というような趣旨のご意見です。

また、少し視点を変えて「幼い子どもだからそう伝える」という発想のご意見も多かったように思います。要は発達段階的にそれが必要だというご意見ですね。

「幼い子供は他者の気持ちまで考えられないから、まずはこういう表現で学ぶ」
「最初に自分が嫌なことや、自分のうれしいことから始めて、後に相手に共感できるようになる」などなど。

私なりの整理

1つめの「最低限すべき」というご意見は、「嫌なことやしてほしいことは人によって違う」ということを前提とすると、「最低限」にはなり得ないということがお分かりいただけるかと思っています。具体的に言うならば、「自分がしてほしくないことが、相手にとってしてほしいことである可能性」すらあるのです。もしくは、「相手も嫌だと思うだろうから何もしないこと」が相手にとってはして欲しくないことの場合もあり得るでしょう。

そう考えると、「自分が嫌なことを相手にしない」を必死で守っているのに、全くうまくいかないということが起こってしまいます。そしてこの状況は「嫌だ」と思うことが違っている人同士であればあるほど顕著になるかと思います。

2つめのご意見は、「自分が嫌だと感じることを自覚し、相手もそうだと理解することで相手にそれをしなくなる」と「相手が嫌だと感じることが分かって、それをしない」という2つの行為において、前者のほうが簡単で発達段階的に先に出来るようになるということが前提となるかと思います。

しかしながら「心の理論」と呼ばれる他者の内側を推測する能力の発達という視点で見ると、この2つ実はどちらも「相手の内側を推測しなくてはいけない」ので難易度で言うとそう大きな差は存在しないかと思います。(明確にこのテーマで心の理論の発達を取り扱った研究を私は見たことがないので、もしご存知の方はおられましたらご指摘ください!)少なくとも、「自分はこれが嫌!」ということが感じられるのと、「自分が嫌なことは相手も嫌」が理解できること、もっと言うとその理解を生活場面で自分の行動に反映できることは全く別の能力です。

つまり、心の理論が未発達な幼い子どもに「自分がされて嫌なことでしょ!だから〇〇をしてはいけません!」と伝えてその〇〇をしなかったとしても、それは単純に「〇〇をしてはいけません」というメッセージを理解しただけの可能性が高いということになります。

加えて、「人が嫌だと思うこと、うれしいと思うことは大体において一致している」ということ前提の言葉かけを幼いころからずっとしていると、「自分が嫌なことは相手も嫌なこと、自分がうれしいことは、相手もうれしいこと、であるはずだ」という誤った認識を強化してしまうリスクもあるあるように思います。年齢が長じると、「嫌だと感じること、うれしいと感じることが一致しないとおかしい!」という発想にもつながってしまう可能性があります。これはいわゆる過度な同調圧力の要因となってしまう可能性の高い認識の在り方のように思います。

私が思う大切なことは、心の理論が未発達なくらいの幼い子どもに相手を思いやるために必要なことを伝えたいなら、「「嫌だ」「やめて」と言われたことはやめようね」と「嫌だと思ったら「嫌だ」「やめて」と言っていんだよ」をセットで伝えてあげることだと思います。この声掛けならば「心の理論」を必要としません。そもそも、大人であっても他者の内側を推測することには限界があります。自分の内側について「声を上げやすくなること」そしてその小さな声を聞きのがさない社会をつくることが大切だと思うのです。

「人は違う」を前提とした社会へ

以上、「自分がされて嫌なことは人にしない」という、よく言われる言葉から人の多様性や多様性を認め合うとは何かについて考えてみました。

ありふれた日常の生活の中にも、様々な前提が存在していて、その前提の存在に敏感になること、そしてより多くの人が生きやすい社会となるために発想をアップデートをしていくことがとても大切なことなのではないかと私は思っています。記事にも書いたようにすでに「違い」は存在しています。その違いを無視してないものとして社会を作るのか、その違いと向き合って社会を変えていくのか、そこが問題なのだと思います。

もちろん、「嫌だ」と言ったからといって、つねにその気持ちが通るとは限りません。人が生きていく上で、ままならないことも多いかと思います。しかしながら、互いに何が嫌で何を好むのかをフラットにコミュニケーションし、先入観なしにお互いを理解しようとすることは「多様性を尊重出来る社会の実現」の基礎部分のように思うのです。

もう少し書きたいことも実はあるのですが、長くなりましたしそれは別の機会にしようと思います。本記事がみなさまに何か少しでもお役に立てれば幸いです。

では!

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