「見えないものはない」についての考察②ASDとADHDの比較

発達障害よもやま雑記帳

こんばんは。

「見えないものはない」について、前回の続きを書かせて頂きます。前回は主に自閉スペクトラム者の方の身体感覚から、「見えないものはない」について書きました。

今回はこの議論の出発点である自閉スペクトラム者の方とADHD者の方の裏側のメカニズムの違いについて私なりの考えを整理して書きたいと思います。

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身体感覚由来のASD型「見えないものはない」

端的に結論から申し上げると、「見えないものはない」が起こる裏側のメカニズムには、大きく「身体感覚由来」のものと「注意機能由来」のものがあるのではないかと私は考えています。そしてそれがそのまま自閉スペクトラム者とADHD者のタイプにそれぞれ当てはまることが多いのではないかと思うのです。逆に言うとまだそれ以上のことは考察できていないということでもありますが、ここからはそれらについて少し整理し仮説としてお伝えしたいと思います。

身体感覚由来とは、前回書かせて頂いたように身体感覚の感じ取りにくさが背景にある「見えないものはない」です。もう少し厳密に言うと、身体感覚をはじめとする人間の情報処理のより低次でかつ無意識的に行われているような水準の情報処理過程の特異性が背景にある可能性が高いのではないかと思っています。

そしてこの場合、見えないものは「そもそも存在しない」という感覚につながりやすいように思います。その人の意識から消えるというだけでなく、この世の中にまったく「ない」、世界から「消えた」という感覚です。

この感覚はちょっと言葉で説明することが難しいのですが、人によっては「見えてないところにある世界はすべて演劇の舞台セットの奥みたいに感じる」ともおっしゃるので、世界は「見えている範囲しか存在しない」という感覚に近いのかもしれません。

注意機能由来のADHD型「見えないものはない」

それに対して注意機能由来の「見えないものはない」は、注意の向かう先の変化によってその人の認識から対象が消えてしまう感覚を指します。この場合、その人の主観的な感覚としては「物が消えてしまうはずはなく、この世界のどこかには存在しているだろうが、私にはそれが感じられない」という感覚が前提となるかと思います。

注意機能は人が生きていく上で、とても大切な役割を果たしています。簡単に言うと、人は世界に満ちているたくさんの情報の中から、自分の注意を向けることで情報の選択をしているからです。逆に言うならば人は自分の注意が向いた先の情報しか認識することができません。その意味で、注意が向いていないものはその人にとって「ない」のと同じなのです。

ADHDと呼ばれる現象はまさにこの注意機能の働き方の特異性が、その特徴の中核と考えられます。特定のものに注意が向くか向かないかにムラが発生した場合、その人の主観的な体験としてはその対象が突然消えたり現れたりするという感覚になるということになります。その場合、周囲の人たちからすると「え?それに気づかないの?!」とか「これが見えてないはずないよね」という感覚になってしまうレベルで驚かれることになるかもしれません。

ただ、身体感覚由来の「見えないものはない」と違うのは、先にもご説明した通り「(世界の)どこかにいってしまった」とう前提が感覚としてある部分にあるように思います。

一人の人に複合的に存在する場合

ここまで書いて思ったのですが、もし私の仮説がいい線言っている場合、これらは認知や神経レベルでかなり異なっているメカニズムが背景にあるということなり、一人の人に両方タイプの「見えないものはない」が併存している場合が起こり得るのかもしれません。

その場合、ご本人にとってそれらの「見えないものはない」の区別が感覚として存在しているのかどうかなど、非常に興味深い論点が発生するように思います。もしこの両方の「見えないものはない」を体験されておられる方がいて、その感覚の違いを言語化して頂くことが出来るならば、より精緻にこれらの違いが見えてくるのかなあ、なんてことも思ったりします。

もし、教えて頂ける当事者のかたがおられましたら、こちらのブログのコメント欄でもTwitterのリプライでも情報を頂けましたらうれしいです。

では今回はこのへんで!

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